評論的では生きたことにならない。傍観者では命を無駄にする。人生に余裕がありすぎてもいけない by yamamoto

批評は人生に必要がない

人が人を評論するときに、ぜひ、気をつけたいと思うことがあります。評論というものは確かに鋭さを持つので悪いものではないのですが、人生において評論は不要なものの1つだと私は思っております。評論が短所や弱点を指摘するものならば、評論される側は面白いわけがない。評論が人間関係を悪化させるのです。安倍首相が持病が悪化し退陣しますが、中には辛辣な批評も多い。私も怒りを抑えられず他者への批判が少なくありません。自省。

評論がいけない理由は、評論するだけの余裕があることに起因します。つまり見物。傍観者の立場で批評するわけです。当事者ではないので、評論家は気楽です。当事者であれば必死です。傍観者は見物人。人生をずっと見物だけで終わらせるのか。それとも当事者となって主役を生きるのか。当然、必死で余裕なく努力し続ける人が成長するのは道理です。当たり前のことです。それを避けて楽チンに生きることは人としては死んでいる状態を長期で継続することになります。これは一面的なのかもしれませんが、公務員の中には自身が安泰であるからか、世の中を知らない人が相対的に民間よりも多いように思えます。それで生きていけるならいいなと羨ましがる人もいますが、私は努力しない人は物事がわからないまま死んでいく人であって、つまり人生を大損した人だと思うのです。安泰な立場に長くいることは死んだも同然です。全く残念な人生です。そういう人生はゴメンです。

私は評論する人は基本的に余裕のよっちゃんの暇人だと思います。余裕のよっちゃんの暇人になることを夢見る人も多いのがこの世の現実でもあります。そもそも株式投資を行う目的のひとつが経済的自由などと呼ばれる金銭的な余裕なわけです。「金銭的な余裕があれば、あくせくと嫌な仕事をしなくても済む」という誤った考えが投資の動機であったりします。実は、あくせくと嫌な仕事で悪戦苦闘してもがいている時期が一番、人間というものは成長するものですし、仕事をやり遂げた達成感は趣味では到底味わえないものです。人生は仕事と家庭の毎日の往復なのですから、仕事も家庭も余裕なしで必死で努力する、同僚と家族を全力で応援し続ける、そんなリーダー(当事者)であり続けるというのが人間の基本的な立場なのです。

失われた当事者意識

当事者意識がなければ人は親身に他者のことを考えられないものです。私には四人の息子がいます。末っ子は中学三年生です。多くの学校と同様に運動会が中止になりました。翻って1978年の秋。私は中学三年生でした。運動会の思い出は今でも鮮明に覚えています。名古屋市立守山中学では当時は学年で10クラス。一学年450人というのが普通にありました。クラス対抗リレーで3年F組の代表だった川本、月田、元山、そして私の4人は決勝のリレーで結局は月田の頑張りで優勝したのです。ですが、二番走者だった私は懸命に追いかけましたが数歩先を行く先頭走者にどうしても追いつけない。「くそ、追いつけないじゃないか!」と悔しさいっぱいで川本にバトンを託した。川本も追いつけない。川本が走り終わり、ガックリしている。元山も呆然としている。私も下を向いた。「俺たちは負けたんだ」。クラス中の期待を背負っていたのに。だが月田が最後で追いつき抜き去った瞬間を私はトラックの真反対で見ていた。「勝ったのか?」。結局、我々は当時の守山中学の記録を塗り替えて、新記録のタイムが刻印された優勝メダルをいただいた。走っている最中の一歩一歩の感触、走り終わった川本と目があって「負けたな」と互いに下を向いた瞬間。こうした瞬間は忘れようがなく鮮明に脳裏に残っているのです。親として思うのは、末っ子が保育園の時からクラス対抗リレーで頑張っていたので、中三の今、私と同様に、仲間たちと最後のリレーを走る機会が失われたことを本当に残念に思うのです。それは、私の中から、あの中三の運動会の記憶がなかったとしたら、今でも時折、実家に戻ると、そのメダルが目に入る時があります。そのメダルもなかったとしたら。

大人には子供の思い出を奪う権利はないのです。高校2年の三男の文化祭が中止。地元江戸川区の区民が毎年楽しみにしている文化祭でした。高校2年のときの文化祭で歌った歌があり、そのために作った歌詞があり、メロディがありました。そしてステージがありました。クラスの演劇のために書いた台本があり、コメディを書いて台本を読んだクラス全員が面白いと言ってくれたのに本番になると全然ギャグが受けず、会場がしらけにしらけてしまった。あんな大失敗の台本を書いたやつは誰だ!「私」。こうしたとても恥ずかしい思い出もある。これらの経験は全部、高校2年である三男がすべきものなのです。それも失われた。体育大会も中止。私も高校生2年の時は放課後にクラスで集まり特訓をした。バレーにしてもソフトボールにしても近くの公園で集まり練習して勝った。なぜあれほど楽しかったのか。そういう仲間との共同作業のチャンスを奪った。それらを大人たちが奪ったのです。

組織には責任者がいます。トップの責任は大きいのです。トップというものは、いざというときに、全ての責任を取れる立場にある。責任が取れないからやらないと多くのトップがそう判断した。それでは国は滅びます。責任があるから与えられた職務を実行しなければならない。学校行事は中止にしては教育者として責任を果たしたことにはならない。進退をかけるからこそ、トップが務まるのではないでしょうか。教育委員会も学校長も責任が取れる立場であり親御さん父兄を説得できる立場です。

そして他者を応援するということは楽観主義を採用するということです。楽観主義ーオプティミズムが浸透している米国は困難があっても人々が主役であり続ける。だからこそ逆境でも株式市場は強いのです。一方で悲観主義ペシミズムが浸透している日本ではCOVIDの犠牲がもっとも少ないのに経済ダメージは大きい。他者を応援するのに悲観主義など役には立たない。楽観主義でなければ応援しても意味がない。トップである国会議員、都道府県知事はオプティミズムでなければ国民が安心して働けない。悲観主義一辺倒のトップなど害悪を振り撒くだけ。市場も産業も人も育たない。そのときどきを全力で応援する。勝ち負けではなく、損得ではなく、単にこの時代を生きているという奇跡を祝い他者を応援する。それが人類というものではないでしょうか。負けや失敗や損失から学べることが大きいのは偶然ではありません。負けや失敗や損失がない人生は大失敗です。そんな人生なら死んだも同然です。

リーダーと呼ばれる人々。そして多くの部門長、社長、委員長。トップは当事者意識をもち、過去から脈々と受け継がれた文化やイベントを決死の覚悟で成し遂げる責務があるのではないでしょうか。当事者意識を持ち、当事者として責務を果たしてもらいたいと切に願います。生きるということと単に息をするということは違うのです。世の中にゼロのリスクはありません。どれほど専門家が大袈裟にリスクを喧伝しようが、真夏で熱中症のリスクがあろうが、人間は与えられた季節や状況の中で他者を全力で応援しなければならない。飲食店も祭りのテキ屋も全国民を守り通さなければ政治ではない。過度の安全を呼びかけるのは本気で生きようとしている人を妨害するだけの余計なお世話です。

今時の学校は、子供や競技を大事にしない。運動会の正式なタイムというものを公式な記録して残していない学校もある。他人事だと思えば、全てが他人事になってしまう。手を抜くのはプロではない。仕事に当事者意識と楽観論は絶対に必要。仕事も家族運営も子育ても全力応援と未来への楽観です。

生徒が卒業後にふらりと遊びにきたときに、彼らが母校に残した痕跡を時代が移り変わってもちゃんと見せてあげることは教育者の務めではないのかなあ。もしかしたら50年後に孫がおじいちゃんの母校を訪れるかもしれない。そういうイマジネーションがなければ仕事なんてできないわけですよ。優秀者メダルも作らない学校もあるようです。そういうことではちゃんとした人間は育たないのではないかなあ。しっかりと他者を応援し、他人のために骨を折る。余裕のよっちゃんでは人生は台無しです。生きたことにはなりません。よりよい世の中を作るための我が命です。他者への批評は不要。他者を全力で応援するのみです。それが生きるということではないでしょうか。責任をとり当事者となって生きるのです。生きることを端折ったらもったいない。端折らずに丁寧に努力を積み上げて生きるのがいいね。子供たち、部下たち、若手にできる限りの多くの失敗をさせようじゃないか。失敗をたくさんするんだ。若手の失敗に目くじらを立てているようじゃだめだ。政府の失敗を叱責するようではつまらない。失敗なんてない。次やるときに生かせるように議論しようじゃないか。GO TO多いに結構。やってみようじゃないか。そして検証しようじゃないの。若手にやらせてみようじゃないの。スタディアムに人を入れようじゃないか。海外にバンバン行こうじゃないか。全て、やってみようじゃないか。そのための合理的思考だ。ビックデータだ。テクノロジーだ。IoTだ。そうじゃないか。

ーなどとそんなことを考えておりました。今の状況ならば、なんとかなるさ。できる。さあ、やってみよう!