「誰一人取り残さない」 未来を変える思考 by yamamoto

2021年6月23日

わたしの投資哲学について 

このコラムをこれから1年をかけて(ということは過去の事例からは3年ぐらいか??)徐々に完成させる予定です。ですから毎月のように変化してしまうものです。ご了承ください。

ESGの時代。時代と投資家との折り合い

このままでは地球が持たない。なんとかしなければ。世界の指導者たちが2050年までのカーボンニュートラルの目標を掲げています。最初が肝心です。今後の数年間でどれだけカーボンを削減することができるのかが勝負の分かれ目ではないかと言われています。

企業は2年で最大限できることを2年後の目標とし、5年で最大限できることを5年後の目標としています。さらに、10年後、20年後にはこうしていくのだという中期目標をミッションとして発表しています。これらはSDGs(Sutainable Development Goals)と呼ばれ持続可能な開発目標とされています。企業は社会にSGDsを通してカーボンニュートラルを誓っているのです。その中には現在、カーボンを大量に排出している企業も含まれます。

そして、カーボンニュートラルのために、また、よりよき世界が考えた唯一の思考法がこれです。

「誰一人取り残さない」。(no one will be left behind)

「誰一人取り残さない」ことがなぜ持続的な経済成長やより良き社会やカーボンゼロに結び付くのでしょうか。

石化燃料に基づくインフラを抜本的に変えていく。

そうなると産業構造や国家の方針を大転換していくことになります。下手をすると、大量の失業が生まれてしまいます。

それを避ける必要があるのです。

福島原発事故が起こったときには、放射能への恐怖が先立ち、準備なしで介護が必要な高齢者まで避難させてしまい多くの命が犠牲になりました。放射能の健康への害はわずかなのに、避難したら命まで取られてしまった。放射能の害より避難の害の方が圧倒的にひどかったという悲劇。安全な病院から強制的にバスで何十時間も閉じ込められて体育館の床で医療スタッフもない状態で多くの入院患者が必要な処置を受けられずに避難したことが原因で氷点下の中、凍え死んでしまったのです。これぞ本末転倒。

地球を守ることと国民の命を守ることは両立されるべきことです。

ですから、これからの国家は産業転換のために大胆な財政出動を厭わずはいられません。

今後はどの国も大規模な財政出動は当たり前のことになります。鉄鋼業は高温の炉からの大量のCO2を排出します。カーボンリサイクル炉に改造しなければなりません。石油ガスの油田はカーボンを液化し地中に埋めるCCS(Carbon dioxide Capture and Storage)技術などを用いることになります。そのため、各産業で大規模な設備投資をしなければなりません。

ですがカーボンゼロへの膨大な負担を企業にだけ背負わせてしまうと企業は立ち行かなくなります。

企業が立ち行かなくなれば国家は税収を失います。

そして企業の多数の取引先や顧客である中小企業が連鎖的に倒産してしまいます。

多くの国民が仕事を失います。そうなるとこれぞまさに本末転倒。社会が混乱します。混乱した社会では容易に分断が生じてしまいます。人類は分断には弱いのです。分断されると人類は本来の力を発揮できません。よって、最終的なゴールである地球温暖化をも阻止することができません。

このような難しいかじ取りを地球上の国家(=つまりわたしたち自身)が担っているのです。人類史上、もっとも難しいタスクです。それを成し遂げるためにはどうしたらよいのでしょうか。人類全員のベクトルを合わせなければできないような大きな仕事=温暖化の阻止をなすためには何が必要なのでしょうか。社会の構成員のひとりひとりが意識的に主体的に行動できるためにはどうしたらよいのでしょうか。

わたしたちひとりひとりがあきらめないで、他人事に思わないで、主体的に温暖化阻止の目標を理解し、その目標に向かって一致団結して協力し、努力し、日々、行動していくためには、何が必要でしょうか。

わたしの個人的な意見ですが、社会の構成員ひとりひとりの行動が大事なのです。そのためには個々の生活が大事なのです。そのためには個々の生活への金銭的かつ精神的なゆとりが必要なのです。

困窮や経済苦をまず取り除きましょう。

皆がカーボンゼロへの努力をしても、生活に困らないようにしましょう。そのために知恵を絞り、ひとりひとりが努力し汗をかいて、自覚をもってしっかりと行動していくことが求められる時代となったです。

誰一人として置き去りにはしないのは一人の戦力の一秒の努力も無駄にできない状況であるからなのです。わたしたちの時間は一秒たりとも無駄にはすべきではないのです。現代とはそのような切迫した時代でもあるのです。

まずは自分本位でよい

一方で、人間は生命体です。生命である以上、生存本能があります。欲や恐怖で突き動かされます。社会のことを考えるよりも、まず、自分です。わたしもそうです。自分が一番にかわいい。わたしの個人的な意見ですが、みなさまは自分本位でよいのです。自分本位で何が悪い。そう考えてください。そう考えることをまず許す社会でなければ、大きな目標は達成できないのです。これは逆説的なことです。全員のことを考えて全員を助けるには、まずは個人の我儘が許されなければならない。とっても逆説的ですが、これが真理です。我儘でよい。自分本位でよい。それがわれわれ生命体の本能です。本能を知り、本能を理解し、我儘な自分でよいと思えて、他者のことを考えることができるようになる。そういう人が多い。もちろん、少数ではありますがもともと聖人のような素晴らしい人格者もいます。しかし、聖人をベースモデルにして社会を設計することはできません。本能むき出しの自己中の人間像をまずは認めてそれをベースにして作戦を立てるしか成功の道はないのです。

わたしは人間は自己中でよいと思います。自分がかわいくて何が悪いのか。かわいい自分で大いに結構。「あなたは自分ことばかり考えている」と他者を批判する人がいますが、人が自分のことをまずは考えるのは当たり前です。自分を大事にしてこそ、他者も大事にできるのですから。

社会に不安を抱く気持ちも当たり前のことです。おおいに不安でよいのです。理不尽な社会でした。まったく。これをまずは変えていく。その理不尽さを解消していく、それが地球再生へのショートカットなのです。

信じられないほどの理不尽

世の中を見てごらんなさい。なんと理不尽で腹立たしい世の中でしょう。

格差が放置されています。高齢化により老後も想像よりも長いものになりそうです。その老後の生活はまったくといってよいほど保証されていません。年金が月に数万円でどうやって生活するのでしょうか。誰しも不安になるでしょう。

若い人の状況も芳しくありません。学生は就職がそもそも保証されていません。正社員になれない方々も多数いらっしゃいます。大学は高額のお金がかかります。たったの4年間在籍するだけで数百万円という膨大なお金がかかります。さらに日本は先進国では最低レベルの大学院への進学率です。ありとあらゆる高度な専門性が社会に必要とされている時代において、我が国の大学院への進学率は1割未満に留まっているのです。

身の回りには理不尽なことを山のように生じています。1年間に何らかの法律トラブルにあっている人が約1700万人 (20%) もいるのです。しかし、実際に弁護士に相談する人は20%に過ぎません。(弁護士ドットコム決算説明会資料より)。いま、日本で起こっていることは一億人の総「泣き寝入り」です。

お金がないから進学をあきらめる。トラブルがあっても泣き寝入りを決め込む。

正社員になれないかもしれず、子育てには膨大なお金がかかる。誰しも結婚に躊躇してしまう。そして老後は長く生活の保証はどこにもない。将来への不安。仕事上の不安。生活の苦労。身の回りのトラブル。ストレスフルな毎日。この現状をどう打破できるのか。カーボンニュートラルどころじゃないよという方もいらっしゃるでしょう。

不安になってよいのです。不安になって何が悪い。

わたしたちが自分のことをまず考え、不安に悩むことは当たり前ではないですか。

何の保証もないし不安だぞ。自分がかわいいぞ。国民はもっと大きな声をガンガン上げてよいのです。声を上げるといっても、何から始めればよいのか、戸惑ってしまう方も多いでしょう。最初の一歩をどう踏み出すべきなのか。

 

わたしたちは生き物。命を守るための防衛本能がある。だから欲張りでも独りよがりでも仕方はないし、欲がなければ生き延びることはできない

わたしたちにとって一番大事なものの一つは私たち自身の命です。わたしたちには防衛本能が備わっています。空腹では生きていけません。そして危険を避けたいし、孤立して目立つと外敵から狙われやすいわけです。臆病であったり心配性であるのは仕方ないことです。

確かに、生きるためには欲がなければ困りますね。食欲も睡眠欲もそれがなければ死んでしまうでしょう。金銭欲も形は違うにしても安心して暮らしたいという防衛本能からくるものでしょう。

欲がなければおかしいですし、欲を持たずには生きてさえいられない。

でもそのことを承知の上で、欲を制御して欲に理性を織り交ぜる方が人間らしいとわたしは思うのです。人は本能だけで生きるのであれば他の動物と一緒になってしまいます。

わたしが顧客に株式投資のことを話す場合に、多数派よりは少数派であってほしい、そして、感情で相場に反応するよりは辛抱強く理性に従うようにとお願いしています。

言うは易く行うは難し。

人は生き物ですので、どうしても反射的になります。当然、相場の動きにも反応してしまいます。そして相手を説得したいとき、わたしなどは、かなり本能的になってしまう癖があります。

たとえば議論の中で、「日本の経営は女性が少ない」とかダイバーシティがないなどと一般化してしまうことがあります。「日本企業はこうだ」という単調な例えをしてしまうことがあります。こうしたステレオタイプの考えは乱暴であり危険な思想です。そうなると結論は、「けしからん」「なんとかしろ」「是正しろ」ということにしかならず、建設的なものにはならない。

議論というのは固有名詞で期限付きでやるべきものです。言葉の定義が大事です。そして、具体的な数値を入れながら話すのがよいのでしょう。そうすれば一般化よりも具体的な戦略を議論することになる。反応的な対応ではなくて客観性を伴う冷静な対応になる。

もちろん、よい「例え」をすれば、理解が進むことが確かにあるでしょう。そのために、わかりやすくステレオタイプ的な話をして内容を相手に伝えたいという気持ちになることがあるのも事実です。その場合も、すべてはケースバイケースである、つまり例外があることを忘れてはいけません。

ポイント:物事はすべてケースバイケースです。例外が絶えずどこかに存在する。

くどいようですが、そのことをわかっていても尚、わかりやすくたとえ話をしてしまうのが普段の人間の思考の在り方なのです。人は三段論法を使って論理の階段を登っていくわけです。ですから議論する際には互いに言葉の定義を共有してから話す必要があるのでしょう。

わたしも本能のままに行動してしまうことがあります。

論理は正しく使えば武器になりますが、わからずに論理を使うと害になります。

「信号は青ではない」という表現を、多くの人は赤信号であると読み違えてしまいます。

青というよりグリーンかな。あるいは黄色かもしれませんし、停電で壊れているかもしれません。とにかく青ではないということを正確に定義しなければ論理は進められない。

人は論理の問題を本能的に選択の問題に取り換えてしまう癖があります。喧嘩をしている二人がいてそもそも喧嘩の理由がわからないということもあります。互いに面白くない。選択の問題として「わたしかあなたかどちらか」になってしまう。似た者同士で共通項が多ければ多いほど、仲が悪くなったりすることもありますね。

本能的になっていることを自覚できるか

相手をやり込めようと思うことはわたしにもあります。そんなときは、「いけないなあ、わたしはいま本能的になっているなあ」と思えるような余裕を持つようにしています。そのとき大切なことは散歩や瞑想やお風呂などですね。台所へ行って洗い物などもします。家事は気分転換に最適。ふっと落ち着けるひとときを持つようにしています。

散歩しながら、「なぜわたしは相手にあれほど強い言葉を投げかけてしまったのか。そもそも何を期待していたのか。それは正当な期待なのか。自分のための期待ではないのか。自分は自分自身に何を求めているのか。それをいう権利はあったのか」。いろいろ冷静に考えればほとんどの場合、自分に落ち度が見つかるものです。

ポイント:客観的に自己反省することで物事は包括的になり、長期的な展望が開けてくるものです。

それでも苦手な人はいる

このようにすぐに反省することができればよいのですが、人間関係で苦手が出てしまうと、相手をみただけで自然にただ不機嫌になってしまう場合もあります。そうなるともはや事態を打開するだけの意欲もわいてこない。人間には相性がありますので、あまり無理はしなくてもよいのです。ダメな人とはダメなものです。人間、ひとりやふたり、苦手な人がいるぐらいは仕方ないことです。上手くやれる人と上手くやればよいのです。そういうこともあるさと気持ちを切り替えていくしかないですね。

わたしの場合は、反面教師作戦といって、苦手な人物から学ぶ。あの人のあんなところは嫌だから自分はそうならないようにしようと思うわけです。そうやって気分を切り替える。

とにかく客観的になる時間を持つこと。そして自己を遠目から分析するようにすること。

そうすれば、単に乱暴に本能に任せて反応するのではなく、本能を自覚しようとするのですね。本能に従いつつ、流されつつも、本来あるべき理想の姿について自分なりに思いをはせる。そして合理的な思考をしてみる。感情的で情熱的なアプローチもしてみる。自己のことを超えて、他者のことを考えてみる。今日のことだけではなく10年先20年先のことまで考えてみる。そうしていくことで、本能と理性とのベストミックスを保つ練習をしていくわけです。

迷ったら中庸な対応を心掛ける

相場に対しても同じように対応します。

相場に反応するのではなく、価値と株価との乖離に対応する。

この企業のもつ本来の価値は見えませんが、それにあたりをつけるのが投資家です。

そして現在の株価をみて評価不足だなと考える。

株価に対応する際にはマイルドで中庸な対応をする。極端なことはやらない。

相場では1割下がれば1割程度のキャッシュを使ってマイルドな対応をする。

エクスポージャーを保つだけの対応をする。

あるいはグロースとバリューとのバランスにしても、バランスが悪いと感じるときでも、大胆なことはしないで5%とか10%程度のマイルドな調整をまずはやってみる。

今年は全部グロース。去年はバリューとかそういう極端なことはしない。

それは自分のスタイルを保つためです。なんらかの理由があっていまのポートフォリオになっているわけで、ある程度の必然性がある。それをひとつの側面(たとえばバリュー面)で判断するのは危険です。

わたしの場合、自分のスタイルがあまり相場と合わないなあと考える場合は、1割程度の入れ替えをして様子を見る程度にします。抜本的にがらりとは入れ替えるような極論はだめです。

自分が合わないと感じるというときは、さすがに相場が行き過ぎている場合も多いですし、相場に合わせると後追いになってしまい、パフォーマンスを逆に痛める結果になる場合もあるからです。

いずれにしても本能と理性とを上手くミックスさせて折り合いをつけて生きていくしかありません。理性が本能に勝ればそれがよいに越したことはないのです。理性的で合理的な人は現代に急速にはびこる陰謀論に対しても距離を保つことができると思うからです。

陰謀論に巻き込まれた米国民

わたしたちは一人では無力です。無力な自分に未来なんて本当に変えられるのだろうかと思う人もいるでしょう。世間には「温暖化など嘘だ。ESGは欧米の陰謀だ」という人も大勢いるでしょう。あるいは「中国が日本を侵略する」という人もいるでしょう。大量の情報が社会にはあふれていますし、その中で何をどう取捨選択していけばよいのか。誰を信じたらよいのかわからないという人もいるでしょう。米国では元大統領が温暖化は嘘だと言い放ち、未来を限りなく暗く危ないものにしました。陰謀論は他者を悪者にして、自分だけが正しいとするラクチンな生き方を支えるものです。政治的にはもっとも安価なツールですのでどの国の指導者も陰謀論を多かれ少なかれ利用するわけですが、北朝鮮の脅威や中国の脅威といったものがまさにそれですね。これもわたしの個人的な意見ですが、陰謀論は時代をぶち壊す。下手すると人類は数十年単位で陰謀論のせいで遅れてしまう。陰謀論とは距離を保つ姿勢が大事ではないかと思うのです。米国は陰謀論を持ち出した元大統領のせいで中国や欧州に大きく後れをとってしまいました。陰謀論は百害あって一利なしです。

人間社会というものは他者への信頼をベースに成り立つものです

ここで、カネのことをとりあげます。人生はカネだ。カネがすべてだ。そういう考えを聞いて、嫌悪感を抱く人も多いでしょう。しかし、人生はカネだという考えも、実際には他者への全幅の信頼をベースにしているといったら、みなさまは驚くかもしれません。逆説的ではありますが、人生はカネ。カネがモノをいう。こうした考えのベースには他者への全幅の信頼があることを紹介したいと思います。

まず、電子マネーも紙幣も資源や担保の裏付けなどありません。

紙幣の価値を認めるということは、国家(つまり私たち自身とその仲間たち)を信頼するということです。そして日本では日本円が米国では米ドルの価値が庶民から信じられている。100円ショップでは中国からの輸入が多いですね。日本企業も人民元を信じることができなければ貿易は成り立ちません。それぞれの国家がそれぞれの貨幣を信頼している。つまり人類は人類を信頼している。

もちろん中には国家を信頼できない個人もいるでしょう。ゴールドの地金を秘密の場所に隠して何重にも金庫にいれている人もいるでしょう。しかしわたしたちのほぼ全員は紙幣や銀行口座の残高を信じているのです。いや世界中の人々は通貨を信じている。

わたしたちは人類の作り出した信用創造の通貨というシステムをなんの裏付けもなく信頼しているのです。つまり、カネの価値を信じている人は実際には国家=わたしたちなのです。従ってお金を信じる人は同時代を偶然にも生きる仲間を信じる人でもある。そのことを実感できない人もいるでしょう。自分は他人を信じない。自分はお金しか信じないと思う人もいるでしょう。でもカネとは存在自体が他者への信頼そのものなのです。

循環するマネー それは人から人へのリレーのバトンタッチ

お金は流通し、流通することで付加価値を生み出します。お金が流通しているように見えるのですが、実際に流通しているのは、わたしたちの仕事の方です。わたしたちの仕事、わたしたちの決意や判断が活動そのものに金銭的な価値を付与する。仕事が人から人へと渡っているのです。

つまり鉱山で大きな鉱石を掘る人がいる。バトンタッチする。鉱石を運ぶ人へと。砕く人へと。そして、振るいにかける人。溶かす人。加工する人へと。さらに加工部品を組み立てる人へと。倉庫に保管する人。商品を運ぶ人。売る人。買う人。捨てる人。集める人。リサイクルする人。もう一度分解する人へと。

そのようにお金=仕事は循環するのです。循環しているのは、わたしたちのお金だけではないのです。仕事(そして仕事に載せた個々人の思い)も循環するのです。

他者の仕事を粗末にしない

ご飯を食べるときにどの家庭でも米粒一つ残さないで食べることをしつけとして教わったはずです。その理由は「農家が汗水流して働いてくれたものを粗末にするな」でした。

投資も同じです。他者の仕事を粗末にするな、ですね。

社会的な役割は一人が知らず知らずのうちに100も200も負っていますね。そうした何千という一人の仕事が世界中を回るわけです。一人が100人にメールを出せばその100人分のつながりができる。つながるほどに、お金も仕事も回っていくわけですね。

その循環を司るのが企業です。経営者です。経営者を応援するのが株主です。

人は自分のことでいっぱいになってしまうものです。ですから無数のつながりが見えなくなることもあります。余裕がないときもあります。

そのために他者を頼るしかない弱い存在でもあるのです。

できないことはできないし、進歩は遅々として進まない。

早急には結果は出ないものです。何をするにも我慢が必要です。信じたら待つこと。

待つことが投資家の一番目の仕事でしょう。

そして、物事は複雑です。ひとつのイベントでさえ、多くの人々の利害が絡みます。

単純に物事を白と黒で切り分けることはできないのです。

その世の中の複雑さをおもんばかるということが二番目の投資家の仕事でしょうか。

人間の複雑さや多様性をおもんばかる (寛容さの重要性)

人は多様です。一人の人間は複雑です。たとえば、ここに一人のお父さんがいるとする。彼には年老いた両親がいる。お父さんはご両親の長男でもある。お父さんには息子がいる。息子の学校からみれば父兄である。お父さん。企業の中では部長です。部下から見れば上司です。社長からみれば部下です。ショップからみればお客様です。部長として取引先を接待する側にもなり、部下をもてなすエンターテイナーでもある。お父さん。多彩な趣味があります。時折アマチュアバンドで活躍するギタリスト。ホノルルマラソンを目指す市民ランナーでもある。囲碁の好きなアマチュア棋士でもある。このように様々な顔を持つ。一人の個人が100の多重な役割を担うスーパーマンでもある。それが人間です。

それだけではありません。お父さん。普段は穏やかな紳士です。しかし、不機嫌になることもある。自己制御ができない日々もある。寝不足になったりする。落ち込むことも多い。決断に自信が持てないときがある。あるときは組織の犠牲者になり、あるときは加害者になる。ひどいことを家族に言ってしまったり、十分に親孝行できないと反省したりする。自分はどうしたらよいのか。途方にくれてしまうときもある。

人は何千という他者に関わっている。それでも自分は独りぼっちだと思ってしまう。

株式投資でもっとも大事なことは他者を信じることです。そして他者に頼ることです。

人は助け合うことができる。教え合い、力を結集することができる。

働きすぎて疲れてしまう人もいるでしょう。他を懸命に助けることでバーンアウトしてしまうときもあるでしょう。いつもはよい人間でも、あるときには悪い人間になるのが人です。社会に関心が持てる日々もあれば、どうしても関心が持てない日々だってあるでしょう。

SNSからの脱却(ステレオタイプや二択論や乱暴な議論から距離を置く)

現代の投資家は物事を単純化しすぎるきらいがありまして、わたしはAI分析やSNSのカテゴライズの罠が気になっています。わたしたちはフェイスブックが押し付けるようなストレオタイプではないのです。「日本人」という特徴ある人間などはどこにも存在していません。ところが日本はこうだ。米国はこうだという話が巷にあふれる。O型という血液型には特徴などはありません。ウサギ年。てんびん座。個人の多重性やスーパーマン性に比べたら意味がないカテゴリーです。フェイスブックが「あなたはこれが好きですね」と流してくるCM。SNSが勝手にカテゴライズする人格をいつの間にか無批判に受け入れてしまう。そして、それを自分だと信じ始めてしまうのです。本当に怖い話です。

こうした機械が作り出したステレオタイプのカテゴライズを信じたら、投資家は死んでしまうのです。このようなカテゴライズは多様な考えや人間の複雑さを忘れさえて議論を乱暴にします。乱暴な議論から正しい投資判断は出てきません。

世の中が単純な白黒で分けられたら、苦労はありません。わたしが陰謀論を否定するのはこうした理由からです。

政治の問題 二択の罠 陰謀論の罠 

弱者が弱者のままでいることは強者が強者のままでいることでもありますね。弱い者同士がいがみ合っていた方が政治を司る人々にとっては都合がよいという、そのような狭い考えもあります。現実には、政治というものは、弱者の批判の対象を違う弱者に置くことで国民の不満のガス抜きをしてきました。江戸幕府が士農工商という制度をつくり農民の身分を名目的に高くして工業や商業を下にみたのもガス抜き。そして工業や商業からみれば、えた・ひにんという「人以下」の身分をつくったのもその流れと言われています。現代では米国の元大統領が庶民の暮らしが悪いことを移民や中国のせいにして仮想敵を作り上げるなど、江戸幕府と同様の分断政策をとりました。

ですがいまはそのような時代ではありません。分断をしては人類が負ける。温暖化に負けてしまうからです。

弱者の立場からも強者の立場からも、他者へのリスペクトがなければ社会は進みません。

強者は財や健康や時間に余裕があるため、批判を咀嚼しばねに変えることができます。ですから弱者からの批判をバネにしてよりよい社会をつくる主役としての役割が期待されます。

弱者はまず、余裕を取り戻すことなのです。ですから政治の役割は大きいのです。

そして弱者だからといって弱者を批判してはいけない。未来を変える思考を少しずつでもよいので取り入れていただく。それにより、少しだけ余裕を取り戻していただく。余裕が少しできれば自分をもう一度、長期でデザインしてみる。それができればと、一歩一歩をゆっくりでよいので歩むことをわたしは願っています。

そのためのコラムにしたいと願っています。

弱きを助けの意味は、そのままのその人を受け入れる。「できない」と上から目線で判断しないこと。健康でコロロに余裕があってお金にもある程度の余裕がある人々が、そうではない人々を同じ尺度で断罪してはいけないのです。大変な状況に思いを馳せる。共感してあげる。頑張りたいなら自分が頑張ればよい。強者は余裕があるから強者が代わりにやるべきことをやればよいのです。

強きを挫くの意味は、できる人、やる気がある人には、もっと叱咤激励をするということ。もっとできるよと応援することです。仕事が楽しい人にはもっと仕事が楽しくなるようなネタを提供したり、お願いをたくさんしてみる。できないことを頼まれても強者はやろうとしてくれます。できないことにチャレンジすることが強者にとっては楽しいことなのです。

こうやって誰一人取り残さない世の中はよい方向に動いていきます。

わたしたちはグレーな存在であり、悪でもあり正義でもある。間違っているし間違っていないときもある。ですからこうした多重性や二面性を相手のグレードに合わせてTOPとして使い分けなければならないのです。出来る人にはそのレベルに合わせた対話をすればよい。出来ない人にはそのレベルに合わせて励ましてあげる。子供を相手にするときには子供の目線まで合わせて話す。大人を相手にするときは相手の程度に合わせたテイラーメイドの対話が必要になるのです。

 

陰謀論やカテゴライズの行きつく先は荒涼とした虚無

自分という人格をAIが勝手に作る。そしてAIは勝手にわれわれの命をあるストレオタイプにはめていく。そして他者を同じようにどんどんくだらない枠にはめていく。その行きつく先は多様性のない世界です。その荒涼とした世界は虚無です。

そこでの人の役割はたったひとつだけです。あなたは常時正しい人。正義の味方です。もちろん、ステレオタイプの悪者がいます。そうですね、北朝鮮という悪者がいる世界を選びますか。それとも中国という暴れん坊がいる世界を選びますか。中国を助ける人は全部悪い人。中国を攻撃する人は全部よい人になります。

狭い枠の中で狭い思考をします。狭い二者択一の枠からより悪い奴らを選び、より悪いやつらが次にどんな悪さをするかを限られた選択肢から選びます。そういう世界。その世界こそが虚構であることもわからないで、投資家としては死んだ人々が乱暴な議論をする。もはや株式投資も何もあったもんじゃない。

わたしはみなさまには世の中を信じてほしい。

他者を信じて、あえて悪いところには目をつぶってあげてほしい。

他者のよいところだけを見つけてあげてほしい。

それは他人のためでもありますが、本来の自分を取りも出す作業でもあるからです。

まずは他者からのレッテルやSNSからの押し付けを拒否してほしいですね。

誰も気が付かないような細かいところまで見て、他者のよいところを探してほしい。そうしているうちに、実際には、自分の細部のよいところも見えるようになる。本当の自分のことを認識するようになってくるから。

自己が多様な存在であることに驚愕してほしい。いつも正しいとは限らない自分。それがゆえにこころ揺れる自分。だからこそ、それを乗り越えようとする自分の強い意志に感涙してほしい。

自分が正しいとは限らない自分だから、他者と仲良くする必要がある。他者を信じられない自分だから信じてあげることが両者の人生を豊かなものにしていく。与えるほどに豊かになっていく。だからあるべき自分を信じられるようになる。そのすばらしい好循環を実感してほしい。そうなったときに、投資のノウハウは身についたも同然。あなたは自分のリーダーであり仲間のリーダーでもある。人類を信じて、よりよい未来を一緒に作っていく一員となります。

誰一人取り残さない社会でいつなんどきも誰からも否定されない世界で、わたしたちはいまを精一杯生きているのです。そのことに感謝し、自己を祝福してあげてください。

どうしたら日本がほんのわずかでも前向きになれるのだろうか。これがこのコラムの執筆の動機です。わたしは孤軍奮闘して頑張り輝いている人をずっと金融業界から応援してきました。一方で虚無感に苛まれるやる気が出せない人々も多く見てきました。やる気というものはどうしたら出せるものなのか、私自身も企業を経営したことがありますし、チームの運営については何十年とマネジメントしてきた経緯がありますので、人間というものの心の持ちようの難しさはわかっているつもりです。それでも、日本は捨てたものじゃないのです。わたしたちの未来は明るいのです。わたしたちは未来を信じていいのです。これらの「前向きな」考え方、未来を変える思考について、丁寧に論理的に、そして事実に基づき詳しく紹介したいと思います。

自己紹介

私のことも少し。

わたしはファンドマネジャーという仕事を長い間しています。お金を増やすことを職業としている金融のプロです。そしてファンドマネジャーというのは投資を誰よりも失敗してきた人間でもあるのです。投資の失敗を通して、おのずとわたしも組織や経営者を見る目が養われました。わたしは20年以上、株式運用のパフォーマンスと格闘しています。金融の仕事は、一言でいえば、未来を変えるお手伝いをすることです。もちろん、わたしたちは未来というものを予測しています。ただ、投資家というものは、もう少し具体的に考えています。この地域の5年後、この業界の10年後という具合にひとつひとつを丁寧に細かく見ていくわけです。

世界中にいまはよいお手本があふれています。特定の経営指標が特定の企業にぴったりと合っているような場合もあり、そんなときは、経営に使える指標を経営者にレクチャーしたりするのもファンドマネジャーの仕事です。わたしたちは多くの成功事例も失敗事例も見てきていますし、経営者には山ほどあってきました。未来をよりよい方向に変えるための助言を経営者にするのが運用者の仕事でもあるのです。経営指標は経営者だけが理解してもダメで、社員全員が腹に落ちるものに仕上げていく必要があります。無駄に費用をつかうと時間当たりのROICがこれだけ下がるよという具合に節約や工夫を社員に促すのです。そうなるとより意味のある書籍や装置を買うためのお金が溜まるからそっちを買いなさいよ、という具合。よりよい未来のために、よりよい分析ができる他人がみたらうらやむような職場になるよ、という具合にアドバイスをしていきます。

未来を変えるといっても、それは当人の意識の問題ですから、変わろうとする意志がある人々は自然に変わっていくものです。

わたしは残念に思うのは、日本という社会に対してです。なんだか元気がないように思えるのです。とくに若者が迷っているように見える。

若者の就職。これがとても大変そうなのです。わたしは博士課程に所属する社会人の学生でもあります。ですから学部の2年生や3年生のゼミナールなどのお手伝いをすることがありますが、彼らは就職に向けて一生懸命努力しているのです。おかしいですね。若者が元気でない社会に未来はないのです。もう少し元気な社会にするには何をどうすればよいのか。共に考えていきましょう。

人をもっと敬うべき 他者へのリスペクトがあふれる社会にしよう

民間企業への就職ともなると、学生の間では、この人は何社内定を取ったから偉いという声が聞こえます。

エントリーシートなるものがありまして、何社も何社も手書きで自己アピールを書き込む必要がある。エントリーシートだけで100枚ぐらい書く人もいます。最近はさすがに手書きではなくてホームページからの入力によるものが多いと聞きますが、それにしても大変な労力が必要とされます。

就職活動になると、もはや学生は学生ではなくなります。活動家になってしまうのです。ゼミナールや学業にはもう身が入りません。就職はとても重要なことですので仕方ないことです。そして、折角就職しても3年ぐらいで辞めてしまう。若者の離職率は高いのです。就職後三年内に3分の1は離職してしまうのです。中には前向きな転職や起業もあるのですが、多くは「こんなはずではなかった」という失望の中での退職や転職です。

わたしは多くの上場企業を見ている関係上、離職率は重要な投資のための指標になっているのですが、離職率2%とか1%程度しかない企業への投資を行うことは多いのですが、離職率が10%以上の企業への投資はかなりのリスクが伴います。人は使い捨てにはできないものですし、人を育てるには想像以上のコストがかかります。人材が辞めてしまっても仕方ないと考える職場はよくない職場なのです。

職業上、わたしは投資家として職場というものがどうあるべきか。ずっと考え続けています。たとえばこのような考えをするように至りました。

わたしのとんでもない?仕事観について

仕事なんて人生かけるほどのものじゃない。

毎日は遊びにすぎない。

わたしは自分で会社を作って金融機関から運用資金を預かって運用する機関投資家でした。2006年のころのことです。わたしは会社の社是をつくりました。

社是は「Enjoy Every Moment!」(毎日は遊びだ!)でした。

ファンドマネージャーは、日々、企業訪問の繰り返しです。先日、ある証券会社を取材のため、訪問したときのことです。エレベータでその証券会社の女性社員と一緒になりました。

彼女は制服を着ていました。今尚、多くの金融機関では制服があります。わたしが訪れたのは本社です。個人客が賑わう店頭ではありません。なぜかその証券会社では本社ビルのスタッフも制服を着ているのです。その彼女は「何階ですか?」と親切にもわたしの降りるべき階を聞いてくれました。 わたしがエレベータを先に降りるとき、少し怯えたような感じで、深くお辞儀をして送り出してくれました。

こう書けば、この会社は教育が行き届いていると思われるかもしれません。とんでもない!!

そのとき、わたしは、 「この会社は、この女性従業員のもつ潜在的な能力の何%も引き出してはいない」 という気持ちになっていました。

あくまで表面的な感想ですが、それでも、 「こういう(従業員の力を真剣に引き出していない)会社には投資できないな」 と逆に思ってしまったのです。

投資家として投資に値するのは、従業員がやる気に満ちてモーチベーションが高い組織です。 それでは、モーチベーションの高い組織は、そうすれば構築できるのでしょうか。 わたしがいろいろな会社を訪問する中で考え、また、実際に、企業を経営してみてわかってきたことを紹介していきます。 (ただし、独断と偏見に満ちております。)

人生など暇つぶし

「人生は大いなる暇つぶし」 とわたしは考えています。

休日に終日パチンコをして、いくら時間とお金を「浪費」したとしても、あるいは、高尚な古典文学作品をじっくりと読み味わったとしても、その両者の時間の使い方、お金の使い方に優劣があるわけではありません。どんな人のどんな時間の使い方にも、序列はつけられないものです。

どんなに密度の濃い人生を送ったとしても、どんなに「意味のない」時間を送ったとしても、人生に優劣の差があるわけではありません。他人が他人の人生を評価することはできないからです。テレビドラマを見るよりは、小説を読んだ方がよいという人がいます。テレビを見ようが、小説を読もうが、どちらも暇つぶしです。小説は、読み手を意識して書かれています。 いわば、面白いネタや枠組みが最初から仕掛けられています。 テレビドラマと大差ありません。詰め将棋や数学の問題を悪戦苦闘して問いている時間も、頭を使っているというだけで、暇つぶしにしかすぎません。 (頭を使う方が、建設的で健康的であるとはいえるでしょう)

物事や人物に優劣はありません。 あるのは違いや区別だけです。

その違いや区別を生かすのが組織です。

ですから、仕事なんてただの商売。人生をかける価値ない。

そう言ってわたしは社員(アナリスト)を雇用してきました。

(商売なんかに真剣にならないほうがいいよ)と。

働くことも暇つぶし

「働くことも単なる暇つぶし」と考えて深刻にならないでほしい。社員にはそういいました。

働くことは商売。商売は生きる手段。目的ではない。手段は手段以上の価値は持たない。

ただ、働くならば、一瞬、一瞬を惜しんで楽しく遊ぶチームにしたい。

投資家であれば、経営者の方々にお会いして、成長事業をじっくりと分析するわけですから、楽しくないはずがありません。たかが仕事。考えあまり深刻にならないことです。

この日本には疲れている人が多すぎる!

特にブラック企業に勤めている方々、「しんどいな」と思ったら思いつめないで即座に会社を休んでもらいたい。ずっと休んだっていいんですよ。近くの日本共産党の事務所にいって地方議員さんに相談してみてください。労働組合がなければネット検索して働く者の権利を守るために戦ってくれる仲間を探してみてください。泣き寝入りはだめです。疲れた人、ぼろぼろになっている人、そういう人に親身になってくれる人はいるのです。彼らを頼ってください。

まずは「楽しむ」という意識が自然に生まれるまでゆっくりと休むことをお勧めします。

人間そのものが大事なのです。みなさまの心と身体がなによりも大事なのです。

経営者はそう考えるべきだと思うのです。そうあるべきとは、人間を敬ってほしいということ。会社だからといって「郷に入っては郷に従え」という考えではいけない。人と人とは平等です。社員は他人です。人間です。人間をもっとリスペクトをしてください。それがわたしからの経営者へのお願いです。

ノルマよりも自分の命の方を重視してください

わたしは以前、株データブックという雑誌の分析責任者を1年だけではありますが経験したことがあります。雑誌の立ち上げに関われたことは名誉でした。出版社と協力して15人程度のアナリストを雇用してその企業の取締役として1年間活動しました。残念ながら少数精鋭すぎて大変な重労働でした。そこにはノルマ=締め切りがありました。ノルマがなければ雑誌ができません。ひとり150社という分析をノルマとしたのですが、どう考えても時間が足りません。そんな職場でアナリストを働かせたことがあります。

重労働というか徹夜が当たり前だった当時、年配の方、Kさんが体調を崩してしまわれました。ノルマ達成が難しくなったときがありました。 そのとき、彼の直属の上司が、「早く体調を直せば、まだノルマ達成は間に合うから」といったとき、わたしの血が逆流してしまいました。

体調が悪いなら、仕事が楽しくできる状態ではありません。 それなら、体調が完全に戻るまで、Kさんは仕事をすべきではないのです。 そこで、わたしは、 「ノルマなんてやらなくていいんですよ。ノルマよりもKさんのお身体の方が大切です。 体調が悪いのに、無理して会社にいらっしゃることなんてないんですよ。 ノルマが本当に必達なら、会社が代わりに無理してでもやりますよ。さあ、帰りましょう!とその人を無理やり帰してしまいました。

ノルマなんてものはですね、会社がコストを余分にかければなんとかなるものです。

会社がコストを惜しんで従業員に無理をさせるということは人権の侵害で、持続可能な成長とはいえません。 企業には社員をリスペクトする性善説に立ち返った経営を取り戻してほしいと思っています。商売はたんなる遊びであるから、これからは職場ではなくて、遊び場と呼びましょう。「会社に行く」ではなくて、「いまから遊びにいってくるね」といって家をでましょう。

都内のオフィスは引き払いましょう。夏は軽井沢、冬は沖縄。大概は寝転んでごろごろすること。 本当にやりたいことが見つかった組織は、お金がなくても工夫してごろごろ、ごろごろとやりたいことをやる。ギリシャ人のようにゴロゴロして床に寝転がって哲学しましょう。

高い効率はこのような「遊び心」から生まれるものです。 仕事とか会社とか、侮辱するわけじゃないけど、人生をかけるほどのものじゃない。

Enjoy Every Moment!

仕事なんて大いなる暇つぶしだ。まして仕事は命をかけるほどのものではない。

会社を辞めてしまう若者

若者の3分の1が苦労して内定を獲得した企業をそそくさとやめてしまう。

経営者や企業の側に責任はあります。なぜかというと離職率が低い企業もあるからです。要は企業の努力が足りないだけです。しっかりと努力している企業では、そんなに安易に若者を辞めさせなません。

若者は世間知らずです。老人だってずっと狭い世界で生きていれば世間知らずのままです。

みんな自分のことで精一杯です。至らないところが多い。だから新人。だから若者。当たり前のことです。至らなくて何が悪い? 世間知らずで何が悪い? 何も悪くはないのです。世間知らずでよい。堂々と胸をはってください。

エントリーシート? ふざけるなですよ。人を採用するにもコストや効率が重視される世の中なんてまっぴら。

大切な人材を獲得するのに効率的なやり方を選ぶのは愚の骨頂です。

わたしならエントリーシートを学生に提出させる企業には投資はしたくないですね。

エントリーシートという形式は企業側の勝手な要求です。ちなみに、わたしが学生のころの話をしましょう。わたしは民間企業に就職をしました。就職活動を始めたのは最高学年の9月でした。卒業まで半年しかない。いや半年もあったというべきでしょう。

ああ、もうすぐ卒業だ。そろそろ就職活動でも始めようかなあと思っていました。

わたしは就職活動のやり方さえ知りませんでした。やり方など、どうでもよいのです。就職したい企業があれば直接相談すればよいだけ。あれ、そろそろ就職活動しようかなと思って、当時は電話帳などというものがあり、職業別電話帳をパラパラめくって、証券会社に電話して、「あのー就職したいんですけど」といえば、人事部に電話が回されて、面談が直接設定され、最初に面談してくれたところにしようと即決しました。一応、スーツを着て、役員に面談して、その場で内定をいただきました。やったことは電話一本です。

相手からすれば、「いきなり支店長に電話なんか直接かけてきて、変わったやつがいるぞ」ということなのです。本社の人事部ではなくて、松江支店の支店長に電話をしました。そういうサプライズというか人との出会いは案外、重要なのかもしれないのです。運命的なものを相手に見せるわけです。

面談では「あのー。最初に電話につながったのが御社。実は電話帳の前にあいうえお順でコスモ証券、野村證券、和光証券とあって、前二つは面談時期が一週間後、御社がたまたま一番早く面談。だから和光証券に決めた」とそう正直に答えました。わたしには地場の小さな証券会社も業界最大手の証券会社もみんな同じだと思っていました。いや、むしろ、お世話になった松江という街に存在してた三社。その三社の松江支店で働くものとばかり思っていたからです。

わたしには学生時代、鍋田学習塾という塾で4年間働いていました。鍋田さんは塾の二階を改造してくれてわたしが寝泊まりできるようにしてくれて、簡易シャワーも設置してくれました。家賃はゼロ円です。鍋田さんのお蔭で苦学生だったわたしは卒業できたも同然。この恩を忘れないためには、松江を離れるべきではないし、そのまま住み込ませてもらって、夜、ボランティアで塾をお手伝いできると思っていたのです。わたしは家賃も払えないような苦学生で仕送りもゼロ円でした。塾に住み込みで働かせてもらっていたのです。塾で夜働き、昼間は大学でした。そんな生活でしたので、昼間が大学生から証券マンになるだけだと思っていたのです。

ところが和光証券はそこそこ大きな会社でした。思いもよらず上場企業だったのですね。わたしは4月から東京本社の国際本部に配属されてしまったのです。たしかに入社試験の成績はTOIECでは同期で一番だったと思います。成績も大学院だったから自然とほぼオール優でした。入社一年目で日本興業銀行に出向となるなど、人事がわたしを過大に評価してくれました。わたしは大いに期待された新人時代を送ることになったのです。このように、わたしは和光証券では特別に大事に育てられました。とにかく学ぶだけの日々でした。金融の世界は学習の世界だったのです。オプションの理論やスワップや会計処理など、勤務時間のほとんどは学習に費やされて、先輩方と新商品を開発するチームで数年間、金融理論を学んだのです。これはラッキーでした。最初に配属されたのがインベストメントバンキング部門だったのが今思えばラッキーだったのです。このように万事塞翁が馬。高望みしないで、おかれたところで咲くのがよいと思います。

周りと違ってよい。人と違うやり方でよい

エントリーシートが面倒くさいなと思えば、「どうしてこんなものを書かせるのか?」と企業に怒ればよいのです。エントリーシートで何がわかるのか。そう言ってやれ。手間暇惜しんで人事なんかやってんじゃないぞと。仕事ちゃんとやれと。人間を相手にする以上、リスペクトの気持ちがなければなりませんね。大変だろうが、企業なら学生一人一人に直接会って、企業理念を丁寧に学生に伝えてほしいと思うのです。

「誰一人として取り残さない」とわたしのモットー

「弱きを助け強きを挫く」。これがわたしのモットーです。

弱いものが強いものを批判するのはよいことなのです。

なぜならば強者は批判に強いから。そして批判に学ぶことができるからです。

一方で、弱者は批判にさえもろく、ぼろぼろになってしまうのです。

ですから弱いものはこわれないように大切に扱う必要があるのです。

権力者である政府を国民は批判する。これは正当なものです。

日本は権力者を批判してもどこぞの国のように行方不明にはなりません。

そういう意味で日本は素晴らしい国です。強いものに対して弱いものが要求することはよいことです。強いものは実権があり、影響力がある。影響力があるがゆえに、弱者に対する配慮も必要となる。

上場企業の経営者は強いものです。富裕層も社会的には強いわけです。

一方で存在さえ否定されてしまう人々もいます。少数民族。日本にもいらっしゃる。

アイヌの方々。同化政策で苦しんできました。在日朝鮮人。江戸時代の差別からつながる部落民。LGBT。

地方の寒村に住む人。女性一般。

たとえば女性と男性との間の賃金格差。シングルマザーの年収の低さは現実に存在します。

名目上は、男女の差別はないように見えますが、現実問題として圧倒的な差がこの社会に存在している。

こうした弱者に対して、社会は厳しい。そしてお金持ちに対しては、みな憧れを抱いている。それは逆にしなければならない。

中国や韓国の同胞に対しても厳しい。弱い者同士がいがみ合ってしまう。本来、いがみ合うべきではない者同士がいがみ合う。

このように「弱きを助け強きを挫く」というのは現実にはなかなか難しいことなのです。難しいことだから、それを実行したいのです。

現実には、強くなるのは挫かれてもめげないからでもあるのです。

そのように強くなっていける人は自分から学ぶことができ、学ぶものは批判を力に変えることができるのです。

ところが多くの方々はそれ以前の状態にある。もっとひどい状況にある。だから、まずは優しい配慮が必要。そして精神的で金銭的な余裕が大事。そうなれば自然に前向きになる。そうなれば学ぶことを始めるでしょう。

強い人の代表である経営者であれば、事業の全体を見ています。視野も広い。

ところが現場の環境を入社1年ぐらいしか見ていない従業員。彼は弱い者の代表ですが、弱者の視野は格段に狭いのです。

もちろん、社員の中にはやる気がある人もいて、広い視野と深い思考があれば、困難に遭遇しても克服していくことができる。しかし、弱者の多くは、「経営課題や社会的課題を乗り越える?ごめんなさい。いま、わたし、もっと切実な状況にある。そんなことよりも今日の飯の心配なのです」という心理状態にあるのです。

そんなこと、どうでもよい。今日の晩御飯はどうするのか。今晩、どこに宿泊すればよいのか。病気が悪くなったらどうしよう。もっと目先のことが心配でならない。

強いものは当面の暮らしの心配をする必要がないのです。だから高いところから物事を俯瞰することができる。余裕があるです。弱いものからみれば、人生、逃げ切った人。上手くやった人。自分は逆に人生まだ不安だらけでどうしたらよいのかもわからない。上手くやった人が上手くできない人にするアドバイス。効くはずはないのです。

逆に心もお金も余裕がある最強の人々からみれば、弱者はなにをびくびくしているのか。もっとこうすればよいのにと思えてしまうのでしょう。

人には共感力が備わっていますから、誰しもその人の立場で考えることは可能なのです。

強者のみなさまも、お金が全くない状態、健康ではない状態、ひどくストレスを受ける状態に追い込まれたならば、弱者の気持ちもわかるのではないでしょうか。

二面性を昇華する=弁証法=「誰一人取り残さない」という原則

ですから、これもわたしの個人的な意見なのですが、政策にも二面性というものは必要なのです。金持ち喧嘩せずの格言通り、強者は弱者からの批判に強くあってほしいですし、弱者は弱いままでもいい。そして自分勝手で狭い視野のままでもまずはOKです。ESG時代とは、弱者に余裕をもってもらったら、それは人類史上はじめての実験なのですから、どうなるのか。それを上手に導くのが強者である富裕層の役割なのです。富裕層にも貧困層にも同様に役割がある。強者と弱者を対立する陣営と見なさずに、協力する陣営同士と見なす。その思想が誰一人取り残さないという現代社会のモットーなのです。

相場に反応してはいけない

VIX指数が乱高下します。たとえばFRBの政策変更に「反応」してしまう人々が多すぎると感じています。わたしは相場には「反応」しないようにしています。反応とは、わたしの定義では、「新しい事態に何かをしなければならないとする立場で、新しい手を即座に打つこと」です。

反応の代表例は衝動的なナンピンです。ナンピンも長期のシステムの中で短期の判断として行う分には反応ではないのです。反応とはその場でいろいろ決めなければならないことです。前もって予定された行動であれば反応とは言わないですね。投資家のナンピンの仕方は簿価を大きく下げようとするもので、その量も大きすぎますし、タイミングも早すぎる。10-20%の下げでナンピンは早すぎる。そしていまのポジションの倍をナンピンするのは多すぎる。40%さがったら40%ぐらいを買うぐらいのナンピンに抑えたいものです。それはナンピンではなく、エクスポージャーを維持し管理することが目的だからです。意味のあるポジションを維持するためのウエイトの追加であってポートフォリオ運用の手法のひとつです。

わたしの「ナンピン」の計画は、こうです。

トリガーとしてVIX指数、そして為替や原油などの外部資産が特殊な動きをしたことを月次単位で検知をしています。このようなモニタリングにはある閾値が設定されています。なんらかのショックが起きると閾値を超えてトリガーが発動する。その一か月後に通常の状態に近づく確率と二カ月後に通常に近づく確率と四カ月後に通常に近づく確率と16カ月後に通常に近づく確率を比べます。16カ月後と1か月後の通常への戻る確率には大きな差があり、この差を長期がくれた短期のオポチュニティと定義しています。そのオポチュニティは4倍ぐらいの差があるのが普通です。このようなトリガーが生じた場合に、ポートフォリオの性格を少しだけ変える。どのように変えるかというと1年4か月後の期間を見据えて攻撃的なハイベータ株をNAVがピークから下がった分だけ入れ替えるか追加投資をする。キャッシュに余裕がある場合は追加投資。余裕がない場合はポートフォリオの入替です。

トリガーを定点観測して当初の目論見通りの通常への復帰が確認された段階で反対売買を行い平時のポートフォリオに戻すという計画です。これは計画であるので反応とは呼びません。

上の計画を発動したのがまさに、「東京2020一か八かファンド」(注意2020年4月にローンチしたスポット型のもので2021年8月8日に償還予定)であり、1年4か月というのは2の4乗のことで、エクセルである状態確率を2乗してそのまた2乗してそのまた2乗して簡単に計算できるからそうしているわけです。

概ね、バックテストをするようなシステムトレーダーは、このような計画を持っています。わたしはシステムトレーダーではないので、ここぞというときに発動するだけです。普段はしっかりと長期保有を心掛けています。

本日は長期保有の心得について、わたしの大先輩でもある玉山先生の論文を紹介します。

玉山和夫先生のこと

以下の論文は「晴れた日には日経平均4万円が見える」というタイトルの札幌学院大学教授の玉山和夫さんの2015年当時のものです。基本的な考え方は100年通じる考え方です。

1995ー1996年当時、玉山さんは、パリバ投資顧問のFMでした。和光証券時代にアカウントを開いていただいたお客様の一人でした。注文もいただきましたが、「山本君、FMというものは雑学というか、なんでも知っていないといけない。幅広いことが全部つながっているのだ」ということで広く浅くてもよいから幅広い知識が運用には必要だ、これだけやればよい、経済だけやればよい、ミクロだけわかればよい、経営だけ理解すればよい、という類のものじゃないのですよとよく諭してくれました。わたしは国際部のアナリストでもあったので自分でレポートを書いて自分で銘柄を勧めるリサーチャーでしたので、随分とかわいがってもらったものです。

この論文では長期投資にもっとも大切な視点が書かれています。

「BPSの推移が株価を決定する」というものです。

ある条件付きです。

ROEなどの経営効率性や事業収益性を表す収益性指標への信頼がなければならないのです。

つまり経営者への信頼です。

社会への信頼があるならば株は買っておけば上がるものだ、という自信です。

NIDECのパートのおばさんが3.6億円の資産

「株お気軽勉強会」のFBにOさんがNIDECの株主総会の様子をアップデイトしてくれましたが、上場当時のNIDECの株を5万円かったパートタイマーのおばさんの株価直は3.6億円になっていて、そのおばさんは10億円になるまでは売らないといっているそうです。ご興味がある方はFBでOさんの投稿をご覧ください。永守さんのお話はいつも非常に面白い。

玉山論文は以下です。

https://www.dropbox.com/s/ae3f3asc3aowyur/235256763%E6%99%B4%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%A5%E3%81%AB%E3%81%AF%E6%97%A5%E7%B5%8C%E5%B9%B3%E5%9D%87%EF%BC%94%E4%B8%87%E5%86%86%E3%81%8C%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%82%8B%E7%8E%89%E5%B1%B1%E5%92%8C%E5%A4%AB%E3%81%95%E3%82%93.pdf?dl=0

以下は玉山さんの鋭い指摘です。

インカム重視かキャピタル重視か

「株主還元充実のひとつが配当性向を高めることで ある。しかし配当性向を上 げれば BPS の上昇率は低下し,PBR の上昇は抑制される。そもそも日本の配当性向は安定していない。日米ともに,平均値は46%ほどである のに,バラツキを表す標準偏差は,日本が 15.09%, アメリカは 10.05%と,日本の不安定さが目立つ。 配当性向の水準自体も,1980 年代以降は日本が低位にありその傾向が続いている。ときどき,日本の配当性向が上昇して見えるのは,利益水準が低いとき でさえ,配当額を一定またはある程度上昇させる傾向によるものと思われる。要は,利益率が低いので, 1株当たり配当額を維持しようとすると,配当性向 が乱高下するのである。」

このご指摘はさすが玉山大先生です。わたしはインカムゲイン再投資の立場から、配当維持を配当の変動率の標準偏差の小ささとして前向きに評価する立場ですが、玉山さんは逆です。彼はキャピタルゲイン重視の立場からPBRを下げないためには配当性向を抑える必要があるとの見識です。そしてキャピタルゲインというか、株価重視の立場からは、利益率の向上と配当性向の低位安定がPBRの高位安定につながるのだ、だから日経平均が4万円がみえるのだと1万円台のとき(2015年執筆)に書いている。今書くならば、「日経平均10万円が見える」となったでしょう。

ガバナンス改革の焦点は、日本株の効率性の低さです。回転率などが悪い。現金の持ちすぎ。資産効率が悪い。

ここが改善されなければならないが、アクティビストのように北風ではだめで、太陽になって経営者を応援する方が仲間に受け入れられる。何か大変なことがあっても「大丈夫だ。わたしに任せろ」と経営者が腹をくくる必要がある。そのためにはESG的な評価を世間的に得ることです。意味があること、社会的に意義があること、社員がやる気になっていること、そのような組織ならば、苦境は突破できるのです。そして熱意が人を動かすのですから、銀行も投資家もダメな組織とよい組織との違いはわかる。社会は頑張る人を見捨てないのです!

それに尽きる。それが株式投資だと言い切ってもよい。

頑張る人を見捨てない。これは人間の本能と理性が重なり合う珍しいパターンなのです。そしてここが人類の最強の部分なのです。全力を出して他者を信じること、投資家や銀行を信じつつ、上場企業は全力経営で力を出し切ることが求められます。

最後に日経平均場10万円になるための玉山提言です。それは他者への「敬意」です。他者から提供されたものへ価値をしっかりと払うこと。

フリーライダーが多いと社会は衰退します。

マイルドなインフレをつくるためには、自分さえ安ければよい、安さをもとめて自分の貯金をため込むと、社会全体は沈んで行くのです。ウェスルナビのサービスが1%は高いと思うか。当然のこととして認めるか。それは人がどれだけ成熟するかなのだと玉山さんは論文で主張しているのです。成熟していない人はブラックホールと同じです。貯めるばかりで使わない。安くて悪いものジャンクフードなどをたらふく食べるのではなく、よいものを高く買ってあげていばらないでよくばらないで人に分け与え、自分は少しだけ食べること。

投資家は得を求めるのではなく徳を求める者です。

玉山提言「価値に見合う価格を」 

最後に論文から抜粋します。

結局のところ,企業が価値に見合う価格政策をとりうるかどうかにかかってくる。Crossland and Hambrick 2011 によれば,企業のCEOに裁量権が ある国ほどその国での上場企業における CEO 由来 の利益率向上が見られる。そして,CEO の裁量権の大小と,当該国の上場企業の ROE の大小には有意な正の相関関係(決定係数:0.5893, p 値:0.0261)がある。これは,5.2 で紹介したミューラー・山城 2014 が言う,経営層の価格戦略への積極的関与が利益率を上げる,ということと整合的である。 成熟した市民社会では,提供された財・サービス に対してその価値を認め敬意をもって,正当な対価を支払うことで報いる。 企業も消費者も,市民社会の構成員としての成熟度を試されている」。

どうでしょうか。

玉山提言通りに、われわれは敬意をもって付加価値を喜んで払いましょう。

われわれはモノにカネを払っているのではない。モノやサービスの裏側に必ずいらっしゃる社員たちの頑張りに感謝を表するためにお金を払っているのです。

以下、走り書き。後日、加筆の予定。。。

 

お金と心の余裕

仕事観

弱者

余裕がない。

強者からみればわからない苦労がある

仕事は他者からの命令であり義務。

つまらない作業。怒られる対象としての自己。同士であるはずの他の弱者に対しては厳しい側面がある。

強者

余裕がある。

弱者からみれば違う世界にいる。余裕がない人の状況がわからないときがある。

努力が楽しく仕事も楽しい。主体的なリーダー。

弱者に対して冷たくなりがち

批判に強く失敗から学ぶことができる

ですから、わたしたちは弱者には徹底的に優しくあるべきですし、強者には厳しく助言しつつ、弱者への配慮を求めつつも、強者には強者にしかできない社会的意義について話し合うべきです。そして多数の弱者と数は少ないが大きな力をもった強者とのベクトルを投資家は一致させる仕事をする。そうした汗をかいて、社会全体を前へと動かしていく。こちらも全力で学習し努力し社会の構成員たちを応援をしていくべきではないでしょうか。

金融の役割でもある株式投資のこと

株式投資は金儲けの手段だと考える人が多いのではないでしょうか。

株で儲けることは不労所得であり、汗を流して稼ぐ方は労働所得でありこちらの方が貴いという考え方もあります。

逆説的ですが、固定給を保証しているのは株主です。

大切なことは何度も繰り返すということにしたいと思います。そのことで、この思考法は何度でもいつでもどこでも使えるものなのだと思考法の使い方を会得していただくためにも、そうしたいと思います。

本能を理解したうえで本能に任せつつも 本能を制御し 本能を利する

わたしが顧客に株式投資のことを話す場合に、多数派よりは少数派であってほしい、そして、感情で相場に反応するよりは辛抱強く理性に従うようにとお願いしています。

人は生き物ですので、どうしても反射的になり相場にも反応してしまいます。こういうわたしも、これまでの議論の中で、日本の経営はダイバーシティがないなどとカテゴライズした単調な例えをしてしまっていますね。そうしたステレオタイプの考えは乱暴であり危険な思想です。

それでもそう例えなければ人と人とは理解ができない。わかりやすくステレオタイプ的な話をしなければ内容は相手に伝わらないということがあるのも事実です。しかし、その場合も、ケースバイケース。物事はすべてケースバイケースです。例外は絶えず存在する。そのことをわかっていても尚、わかりやすくたとえ話をしてしまうのが普段の人間の思考の在り方なのです。人は論理の階段を三段論法などを使って登っていくわけです。でも議論する際には言葉の定義を共有してから話す必要があるのです。

わたしたちは本能のままに行動してしまうことがあります。そのことを理解してああわたしはいま本能的になっているのだなと客観的に自己を分析する方がよいのです。単に乱暴に本能に自己を任せるのではなく、本能に自己を任せつつもそれを自覚するのですね。本能に従いつつ、流されつつも、本来あるべき姿について思いをはせる。そして合理的な思考をしてみる。感情的で情熱的なアプローチもしてみる。自己のことを超えて、他者のことを考えてみる。今日のことだけではなく10年先20年先のことまで考えてみる。そうしていくことで、本能と理性とのベストミックスを保つ練習をしていくわけです。

  • 本能を感じ取る。本能とは何か。依存するとは。反応しない。依存症から脱する
  • 本能の逆:他者の目を気にしない。他人にどう思われても気にしない
  • 本能の逆: 少数派であることを気にしない。多数派と距離を置く
  • 本能:見たい現実しかみないと自覚する 無知の知を自覚する
  • 見えないものを見ようとする。本能のままでよいこと。種の保存。生態系への畏怖。自然へのリスペクト。
  • 本能に従いつつ 本能の逆をする作戦
  • その1弁証法 ― 止揚 ― ウインウインの考え 本能の逆
  • その2細分化 ものごとを細分化する 本能の逆
  • その1とその2とで人生を長期でデザインする 本能の逆
  • 本能のままでよい部分とは、生命力や感受性や好奇心の強さや 共同体への帰属。共感力。コントローラブルな欲であればよい
  • 欲や恐怖はコントロールする。本能の逆。

株式投資は変化をつかむものだと思っている人が多いのですが、そうともいいきれないものです。投資とは、むしろ、時代を経ても変わらないものを見出すことです。本物の価値は時代に左右されるものではありません。時代を超える価値はプライスレスです。プライスレスな価値をどう見出すか。どうすれば時代を超える価値をわたしたちは見出し、そして身にまとうことができるのでしょうか。

そういう人にこそ、未来を変える思考を届けたいと思うのです。不安で生きて何が悪い。本当の意味で生きることはどういうことなのか。物事に真剣になるとはどういうことなのか。忙しい日々の中で、たまには少し立ち止まっていただき、これからの世界についてともに考えてみたいと思います。

誰一人として置き去りにしない。それはきれいごとではありません。

すべては小さな変化から始まります。小さな変化がちょっとだけ前向きな姿勢へと変わり、徐々に主体的な生き方へとつながっていく。未来を変える思考も最初は小さな変化から始まります。

それでも、地球はたったひとつしかありません。地球を壊してしまったらわたしたちにはもう住処がないのです。温暖化により世界人口80億人がホームレスになってしまう危機に直面しているのです。

こうした危機はかなりドラマティックでもありますね。

自己責任論を拒絶する 

自らが主体的に行動し、未来を変えることに一人一人がもっと汗をかき、努力し、貪婪でなければならないのではないか。わたしはそう思っています。

弱者に自立を求める者へ。そんなに言うなら言った本人がやればよい。。

文句があるなら粛々と自分が代わりにやればよい。自分がやるべきことに注力するだけでよい。他者を批判する必要はないのです。

せっかく一緒に同世代を生きているわけですから、自己責任ではもったいない。自己責任論はさみしいですね。わたしたちは協力しあうことができる。そして助け合うことができる。社会を変えていくことができる。もっとおせっかいになることもできる。そしてもっとぶつかってよい。もっと傷ついてよい。衝突をさけてなにもしないよりも、衝突して、傷ついても、それによりより分かり合うことだってある。衝突することは大きな価値がある。単なる中傷や陰口ではないけないけれども、本気で心配したり本気で叱ることはあってもよい。建設的な意見をぶつけ合うのはよいことです。それを恐れてはなりません。

社会はどう成り立っているのでしょうか。そのロジックをしっかりと抑えることも重要です。そのためには一度、時間軸を取り払い、宇宙から地球を見るような高い視点が必要になります。それが徐々にわかれば、「人間も世の中も捨てたものじゃない」とわかるようになるものです。社会は美しい。それは人の心が本質的に美しいからです。生きとし生けるものは美しい。美しさとは「はかなさ」でもあります。わたしたちは例外なくはかない存在です。そのはかなさがゆえに、共感し、団結し、協力しあうことができるのはないでしょうか。

社会は厳しいという見方もできれば、世の中は愛にあふれているという全く逆の見方も同時にできるのです。この同時性、多様性、多元的な考え方は大事だと思うのです。。

人は自分の身の回りだけを見ていては大局を見誤ります。そして去年、今年、来年という短期の見通しを考えているうちは前向きな思考は生まれません。

「誰も置き去りにしない」そして「全員が勝つ」。そういう社会を作っていく準備をしていきましょう。

2021年6月23日成長株投資の哲学  

Posted by 山本 潤