7713 シグマ光機 ー 金なし。場所なし。ベンチャー物語 by yamamoto

2018年12月27日

語り部 森昤二さん。岐阜新聞2014年9月3日

森 昤二さんはシグマ光機の会長(当時)。「レーザー応用、躍進続く」と題された岐阜新聞の記事がある。

以下、引用。

「私はコテコテの岐阜人」と話す森昤二さん

東京都墨田区、シグマ光機東京本社 1977年、レーザー分野の研究開発用など光学関連製品製造のシグマ光機を、 兄の森基(はじめ)さん、初代社長の杉山茂樹さんと創設。

今では売上高約70億円の国内業界トップメーカーとして躍進を続けている。

「日本経済の発展、レーザー応用分野の拡大の大波に乗ることができた」と振り返る。

基さんが機械・光学設計のエキスパート、杉山さんが機械加工の名手、昤二さんは光学加工の技術を磨いた。 「創業者3人の異なる専門分野、能力がうまく絡み合った」。 光学装置製造に不可欠な3分野の協力体制が躍進の鍵と強調する。

昤二さんは、岐阜市出身。岐阜高校から名古屋大工学部、同大大学院へ進学。

板ガラスメーカーに就職後、 レーザー応用分野の将来性を確信した基さんに誘われ、「一旗揚げよう」と上京した。  創業時は埼玉県内の竹やぶに庵(いおり)を構え、「バンブーカンパニー」と呼んでいた。

苦労を重ねて国内最初の光学部品の通販を企画したほか、生産拠点の増強、株式上場、グローバル展開へと成長。 「(2014年9月3日 岐阜県人 岐阜新聞より)

伝えたいこと

シグマ光機は比較的新しい会社。といっても1970年代の創業である。

確かな技術を持ち、光学設計では天才と謳われた森基さん。営業と研磨技術の習得に明け暮れた弟の昤二さん。そして、機械設計の杉山さん。この3人の起業物語である。

金なく。場所もない。倉庫を間借り。そして、作業場はなんと竹やぶ。やる気だけで地の利を生かして理化学研究所から光学素子部品を受注する。休みは正月1日だけ。土日も働き、昼夜なしに働いた。その物語は昤二さんが各種インタビューで話してくれている。ベンチャーのあり方として参考になるかと思い、ここに紹介したい。

設立のころ

森基(もりはじめ)のは1971年4月に,埼玉県和光市で(株)日本量子光学研究所という名の会社を起業。 借用した倉庫の片隅で光学機器の特注品を一人でほそぼそと設計製作していた。

弟の森昤二が1972年9月にセントラル硝子を退職。兄、森基の会社に入る。  

兄の前職は日本電子(株)の開発部門となる分光研究室の室長。 レーザ技術の将来性やレーザ関連分野の伸長を確信し起業した。 基は日本電子で開発部門の長だった故宅間宏先生(電気通信大学名誉教授,2010年12月27日逝去)の薫陶を受けていた。

宅間氏は基を「天才設計者」と讃えるほどの技術者であった。 「日本電子時代の光学機器の設計製作では精度に関する妥協は一切無く,安心できる製品を作ってもらい, それがシグマ光機の精度の基礎になったはず」(2007年宅間氏の言葉)

杉山茂樹さんは昭和12年12月6日生まれ。

日立製作所からナルミ商会。昭和52年シグマ光機設立時、社長。平成18年に会長になる。

森兄弟と杉山さんとの出会いの場所は,埼玉県和光市にあった(株)ナルミ商会に借りた倉庫だった。 ナルミ商会は分光器を中心とした光学機器メーカーだった。 当時のナルミ商会社長の村上氏は,基が日本電子の分光研究室長時代に同室に頻繁に出入りされていた関係で知り合い, 起業する際には部屋を貸してくれるとまで言ってくれた方だ。

村上氏は東京大学の物理出身。ナルミ商会自体は当時の分光器の標準品として 多くの書籍や文献に社名が掲載されているほどの有名会社だった。

倉庫での出会い

1971年にナルミ商会の倉庫で起業した基は, そこでナルミ商会の社員であった杉山茂樹氏(のちのシグマ光機初代社長)と知り合う。 杉山氏は優れた機械加工技術と商売センスがあって,すぐに基と意気投合。 昤二が杉山氏と知り合ったのは,翌年の1972年9月にこの倉庫を訪れた時だった。  

当時、基は,光学機器設計や特注品の生産で何とか食いつないでいた。 兄の基は,弟昤二が飯のタネとして稼ぐ技能や技術を身に付ける必要から, 将来,光学機器事業を立ち上げるために光学研磨をやってはどうかと提案する。 弟は会社を退職しただけで何の準備もなく,また,化学工学専攻(名古屋大学大学院)でしたので知識や経験が全くないので, 今から思えばゼロに等しい状態からの出発だったという。

4Bラップ盤の中古品を確保し,借りていた倉庫には水道,ガスが無かったために住んでいるアパートに資材一式を持ち込み, 2カ月ほどの試作の後,平行平面基板製品が完成。 しかし,製造過程で研磨ピッチを煮る時に猛烈な悪臭が発生する。 狭い路地にあるアパートでは近隣の住民に迷惑。 そこで,住民が出勤後の午前10時ごろを待って煮始めた。

 資材調達や試作費,生活費で次第に持ち金が目減りする1972年末に,とんでもない難問が発生。 「工場を拡張するので,倉庫を出て行ってくれ」とナルミ商会から言われたのだ。

倉庫を追い出されて 格安の国営住宅へ バンブーハウスの誕生

森兄弟はそれぞれ家族持ちだった。まずは住むところを探した結果、 埼玉県入間郡日高町(現在は日高市)の高麗川(こまがわ)団地に格安の国の賃貸住宅があった。 3Kの部屋の家賃は19,000円と安く,とても快適だったという。 この地区は都内からギリギリ2時間圏のベッドタウンとして,ようやく開発が始まろうとしていた地域。

とにかく貸工場を確保しなければならない。 しかし農業と緑ばかりの土地柄で,そのような目的に向く貸工場は全くない。 毎日のごとく和光市から日高町に通い,地元の不動産屋巡りを続けて不動産屋とは懇意になりましたが成果はなく,弱りきる。

そのような時に,たまたま相続問題で宙に浮いていた竹やぶの土地の話が出て、竹やぶを借りた。 裏には小畦(こあぜ)川という小川があり,水を多く使う光学研磨にはぴったりのところだった。

しかし,さすがに竹やぶでは電力や水道,電話等のインフラが入らず,再び途方に暮れる。 地主の知り合いの不動産屋さんが知恵の限りを尽くして解決でき,細々(ほそぼそ)ながらもようやくスタートを切ることができた。 兄基には稼ぐための仕事をし、弟昤二は毎日,竹やぶ切りと整地に汗を流したという。 また,建設業者や水道屋等に掛け合い,2間×4間の広さの安価なプレハブ小屋が完成。 兄弟はこれを長らく「竹やぶバンブーハウス」と呼んだ。 日高町上鹿山(かみかやま)という所。結局ここで1982年5月までの約10年間, 雌伏の時を過ごす。

研磨の腕を磨き 信用をも磨く

昤二は、光学研磨をなりわいにした。 研磨は技術に関する資料はなく個々人のノウハウの固まり。 しかし,運というものはあるもので,兄基の知人より結晶の手磨きを教えてもらうことに。 結局,約3年にわたって指導を受けることができたという。

手磨き結晶研磨は研磨機がなくても加工できるために投資が少額で済むが,腕は重要。

生産用の小道具としては,手押し切断機やダライ盤,手磨き用ピッチ皿,研磨剤, 測定器としては,ノギス,マイクロメーター,ニュートン板,オートコリメーター等があればスタートできた。

しかし,昤二はセントラル硝子時代に貯めた汗と涙の命金(いのちがねの150万円)もほとんど底を突き始め, 田舎の生活を楽しむ余裕は一切なく,食わんがための死にもの狂いの努力が始まった。

光学研磨の対象は大学や国公立の研究所における電気,通信関連の分野向けに, LiNbO3やLiTaO3のような通信用光学結晶,SiやGaPのような半導体結晶, ピエゾ材料だった。

腕を磨き,生活費を確保しながらの営業や生産と,時は夢中の内にすぎる。会社の売りは「超短納期と低価格」で,顧客の希望に合わせて一生懸命やっている間に次第に信用が蓄積されていく。

休日は正月1日だけで,朝9時より夜2時,さらに必要とあらば徹夜も辞さず,精度については絶対に手抜きせず,ひたすら短納期に徹する。

やがて研磨機を買うことができ,竹やぶの工場も増設され,新しいスタッフも加わり,さらに森基の日本量子光学研究所は 竹やぶ隣地に2階建ての建屋を作って,全体に少しずつ軌道に乗っていく。

仕事は次第にガラスの研磨に移行していった。

標準品事業への準備

シグマ光機創業者の1人である杉山氏。

1973年6月に杉山氏はナルミ商会を退職。 自宅がある埼玉県川越市で機械加工の個人会社である杉山製作所をスタートさせていた。 ナルミ商会自体は当時,光学測定器の生産を大量に抱えていましたので,ナルミ商会からいただいた機械加工の仕事はたくさんあった。

また,兄基も設計した光学機器の機械加工を杉山製作所に依頼していた。 しかし,いつまでも特注品だけでは会社が発展できないと考えて,光学基本機器(標準品)の図面は抜け目なく準備していたという。

時代の利。一ドル300円。輸入品を国産に置き換える。
地の利。理化学研究所の応援

1976年ごろから,地の利があった理化学研究所に盛んに営業に行くようになり, 同研究所から,「輸入品の高価なミラーホルダーを国産化して安く,高精度にできないか」という相談を受け, 設計は兄,機械加工は杉山製作所という組み合わせで試作が始まる。 不思議なことに先行の他社と営業がバッティングすることなく, 研究所の先生方とは製品精度や加工技術の討論で急速に懇意になることができた。

ミラーホルダー類の立ち上げや,光学素子の標準品に対するアイデアの萌芽(ほうが)は,この時に始まりました。 まさに,少しずつマーケットが拡大して目先が見えるようになり,力を結集して効率を上げていくために, 三人で会社を起こす時期になっていた。

シグマ光機の設立

1977年4月に埼玉県入間郡日高町田波目(たばめ)に本社を置き,

資本金200万円でシグマ光機株式会社を設立。 社名は,「3人の力を合わせ(総和:シグマ),光学機器をやろう」という願いを込めて昤二が命名。 昤二が光学研磨,基が光学・機械設計,杉山氏が機械加工をそれぞれ担当し, 光学装置を作る基本3要素が出来上がった。 場所はそれまでと同じ上鹿山の竹やぶで光学研磨と設計を,田波目で機械加工をやった。 営業と生産を一体化して3人の協力関係が密になることで無駄が減り,以前より効率のよい運営ができるようになったという。

まだ企業の体(てい)は全くなしておらず,特注品や機械加工,光学研磨加工などの賃仕事に奮闘していた。 関東近辺の大学や国公立研究所を走り回って,いただける要望を何でも形にして納品する便利屋だった。 それでも光関連の予算は次第に増え,信用も増していくことをひしひしと感じていたようだ。

基が日本電子時代に応用物理学会の分科会である光学懇話会の常任幹事をしていたために多くの光関連の方とつながりがあった。 また,昤二は,大学の卒業名簿をたどって先輩や後輩を訪問することによって営業に役立てた。

カタログ化

1977年から1986年までの最初の10年は,「精度競争の時代」と位置付けた。 会社設立前から理化学研究所へは頻繁に出入りしており, この仕事を通じてカタログ通販の元となるミラーホルダーが完成する。 当時,ドルの為替相場が300円台だったので,輸入品は高精度だが国産品の約4倍の値段となっていた。 「輸入品と同じ精度で安く」という要望を受けて設計と加工に工夫を凝らし, 1977年秋の応用物理学会の展示会に初めて出品したところ,問い合わせが次第に増えていく。 光学基本機器や光学素子ともに少しずつ種類は増えが,いまだカタログ化には至らない段階だった。

それでも注文は増え,手ごたえは感じていた。  “月月火水木金金”の努力の末,1982年5月に,竹やぶにあった光学研磨・設計工場と機械工場が一緒になり, 日高町原宿への工場移転が実現。日本が急速に経済発展する中でわれわれの光R&Dマーケットも急速に伸び始め, さらに米国へのOEM品の輸出も急増して大忙しとなり,2年ごとに工場の増設を行って3号棟まで拡張した。

カタログ通販が次の飛躍のポイントであった。

応用物理学会の展示会への初出品で手応えをつかみ,1984年に総合カタログの初版を発行。 光学基本機器と光学素子のみで種類も少なかったが,仕様と価格を表示したのが「便利で画期的」と評価を受ける。

これに加えて納期まで表示するようになったのは,それから8年後のことだ。 その当時は,通販分野において通信・物流革命が起きつつある時代。

要因は2つあり,それはファクスと宅配便システムの普及だった。 それまでは,図面も物品も郵便で発送していた。 このように,輸入品の精度に負けず,国産における最高精度とリーズナブルな価格を目指して設計・加工に努力した時代だった。

昤二はこの時代をシグマ光機の「精度競争の時代」と言っている。 なお,総合カタログも掲載品目の増加に合わせて改訂に改訂を重ね,この度「第10版」を超えて発行する。 ページ数も800ページを超え,掲載品番も1万点余を数える,国内で最大級のカタログとなり, 当社と顧客をつなぐ重要なツールになっているという。

能登への進出

「納期競争の時代」から「全球競争の時代」へ

光産業の中核技術はレーザ応用技術だ。 このR&D分野に急速に国家および民間予算が投入され始め,需要は目に見えて増えていく。 工場増設のために日高町内の用地を探しましたが,農業振興地域ということでなかなか見つからない。 結局,石川県庁の猛烈なアタックを受け入れ,同県に進出する。 Uターン就職を目指す優秀な若い人をたくさん確保でき,順調にスタートすることができた。

能登工場では光学基本機器の量産一貫工場を実現して,これが急拡大するマーケットでの納期競争に間に合い, また,その5年ほど前から始まっていたOEM品の米国輸出の拡大にも対応でき,増産に増産を重ねるようになる。

一方の日高町では,光学素子の需要が急拡大するタイミングに合わせるかのように, 埼玉県先端産業条例による農地や林地使用の制限緩和が始まり, 翌年の1990年に入間郡日高町下高萩新田(現日高市下高萩新田)に本格的な工場(現在の本社・日高工場)を作ることができた。

さらに,1993年には光学素子製造のコストダウンを目的として中国・上海市に上海西格瑪光机有限公司を, また,欧米の販売拠点として1995年には米国・カリフォルニア州にオプトシグマコーポレーションを作る。 同年,再度,石川県庁の企業誘致に乗って石川県松任市(現白山市)に技術センターを作り,自動応用製品の生産にも注力した。

この時期は,製品精度に加え,顧客の納期に応えることが重要だった。 昤二は1987年から1996年の10年間を「納期競争の時代」と言っている。 相次ぐ工場増設や運転資金および在庫資金など業務拡大のために多くの資金が必要となった。

店頭登録

株式公開企業の道を選ぶ決心をする。 1996年に日本証券業協会店頭登録(現ジャスダック)銘柄となり,株式公開企業となる。

精度と納期の競争に加えて価格競争の時代に入る。 参入する企業も増えてマーケットは次第に熟成し,激しい競争が始まる。

一方,株式公開企業となってからは相当の資金需要にも耐えられるようになり, 知名度向上とともに次第に優秀な人材も増えていった。

カタログという待ちの姿勢からの脱却 東京本社を設立
2002年6月に東京都墨田区に東京本社ビルを購入し,営業本部と管理本部を移転。 カタログ通販は日高町においてファクスと宅配便を活用した全国の販売チャンネルがほぼ完成していたが, R&D分野だけでは業績の伸長スピードは遅く,産業分野に注力する必要が生じた。 日高という土地では,産業分野の顧客アプローチのためには地の利がなく, また,提案力も弱くなってしまうため,顧客に近い所へ移転するという理由がその背景にあった。

さらに,カタログを充実させるとともに,カタログ製品や産業用OEM製品の高度化のための増員と, 上海西格瑪光机やオプトシグマへの投資も増強。 現在、米国系の競合企業による日本,アジアのマーケットへの進出が盛ん。 欧米のマーケットが飽和し,最後のマーケットであるアジアを目指して各社が力を入れてくるのは当然のことだ。 昤二はこの時期を「全球競争の時代」と見た。 「全球」とは中国語で「グローバル」という意味だ。 精度や納期,価格の競争は全球競争へと広がり,製品とサービスの全方位で一層の高度化が必要となった。

光学装置に必要な部品やユニットが生産できる総合メーカーとしての特長を最大限に生かすべく, シグマ光機は「光ソリューション・カンパニー」を標ぼうして,価格競争に巻き込まれやすい部品の単品売りから, 総合力を生かしたソリューションビジネスへと注力し始める。

世界市場におけるシグマ光機グループの知名度を上げるために, 米国・サンフランシスコでの「SPIE Photonics West (Exhibition)」では大きなブースを確保し, オプトシグマの営業を中心に20名ほどのグループ員を投入して認知度アップを図っている。 米国における認知度は,そのままアジアにおける認知度に通じます。アジアから多くの留学生や研究生が米国に渡航しているからだ。 「全球競争の時代」を生き抜くための戦略 世界の競合企業と伍(ご)して,業績を伸ばして行かなければならない時代となっている。

企業の4大機能である営業,開発,生産,経営管理のバランスを図り,全社員が向かう方向を明確化し, 能力の底上げをしていかなければならない。

そのために,社員にはことあるごとに「パーソナルブランドを磨け!」というスローガンを発信している。

メーカーも,品質や価格,納期に加えて,レスポンスやサービスというビジネス上の付加価値と, さらに環境保護や社会貢献などのグローバルな視点での「新たな価値」を提供して, 初めて顧客に満足してもらえる時代となっている。 そして,モノであれヒトであれ,同じように常に「新たな価値」が求められている。 シグマ光機は創立以来,真摯にレーザ応用技術の高度化と光産業の成長を支えてきた。

(2012年4月25日)

以上は、OplusE(1979年の創刊以来,光エレクトロニクスと画像工学分野において高い評価を得ている技術情報誌)からの記事を筆者なりにまとめ直したものだ。

注目する展開

ライバルがすべて米国勢というところで、間接的な競争力はドル円相場影響するというリスクはある。

だが、カタログ販売から量産品へと軸足を移す中で着実にシェアを上昇させている。

ひとつは、東京営業のルート営業が力をつけてきたこと。2018年はカタログ販売部分が売上の半分、FAやフラットパネル製造装置向けの量産部品が半分という売上構成になった。以前は、カタログがほとんであった。

もうひとつは、システム志向であり、顧客からの要望をワンストップで叶える体制ができつつあることだ。

三つ目に、経営が非常に安定している。森兄弟と杉山さんの3人は創業時の苦難を乗り越えてきたが、叩き上げである。その後、近藤社長が4年前に継いだが、昨年、森昤二さんが退任した。近藤さんという生え抜き社長はまだ50代前半と若い部類だ。

四つ目が成長ドライバーの誕生だ。

つまり、レーザー加工向けの対物レンズのシェアアップだ。レンズはかつては3−5枚のものが中心であったが、いま、10−15枚と高度化。液晶のRGBや配線のリペアなどに同社の対物レンズが活躍している。3年前から急速に引き合いが増えているという。どうやら、後発ながらユーザーの評価が高く、シェアを急激にあげているという。

近年、レーザー加工においては、レーザーの高出力化やレンズ薄膜塗布工程の多層化が顕著であるが、それが同社の業績の追い風となっている。

つまり、レーザー高出力化により、対物レンズの塗布膜が痛み、レンズ交換が二三ヶ月となってしまっている。交換頻度が高まっている。また、多層膜が100層にもなるものが登場してきては、レンズ単価が上昇せざるを得ない。つまり、数量が伸びて、価格が上昇、という訳なのだ。それにより、今期は久しぶりに過去最高利益を更新する予定だ。

投資家が知っておいた方がよいこと

光学素子とそのユニットは、いわゆる光学設計、そして素子製造がベースにある。レンズの製造については、光学フィルター膜を蒸着し薄膜形成を行うが、材料や多層膜の膜厚、膜数などはブラックボックスとなっている。つまり、経験とチューニングが不可欠なアナログ技術の典型であり、コピーアンドペイストできない。参入障壁の高い事業である。

さらに、一眼レフ向け対物レンズのように、可視光を扱い、画像を得るのが目的な趣味分野のものではなく、同社はナノ単位の計測や実際の微細加工のためのレンズである。

レーザー光を直接受ける過酷な状況で使用するため、交換頻度が高い。

そして、漠然と写真をとる目的よりも、しっかりと距離を測り、加工するという目的特化の方が、付加価値が高い。事実、同社のカタログには、対物レンズのユニットで100万円を超えるものも多い。

たとえば、液晶では配線のひとつが不具合があれば、パネル全体の付加価値が台無しになってしまう。

レーザーによる異物の除去は、IT分野のみならず、医療向け手術向け等への応用も見られる。

同社の売上の多くは、国と企業のR&Dが中心である。シグマ光機は、日本のR&Dの現場を支える重要な企業である。

業績

year Sales OP (mil. JPY)

2001.5 7562 915 (IT バブル)

2002.5 5934 315 (IT buble 崩壊) NW8649 64%

2003.5 6023 559 nanoレベルの精度のステージ 液晶装置向け

2004.5 6662 848

2005.5 7506 863 overseas 14%

2006.5 8199 1303 HH

2007.5 8015 1243

2008.5 8055 1205 nw82% 

2009.5 6389 200 (リーマンショック)

2010.5 6046 200

2011.5 7024 582 

2012.5 6952 428 overseas 23%

2013.5 6191 178 (超円高)

2014.5 6724 360  (森社長から近藤社長へ 森会長へ)

2015.5 6676 435

2016.5 7466 790 検査用レンズ 極小光ファイバ共振用高反射ミラー

2017.5 7846 912 (森会長引退)

2018.5 8600 1320 対物レンズ牽引し、過去最高を12年ぶりに更新へ

取材メモ

光100兆円。国内10兆円。 レーザー向け1.5兆円世界。 R&D  (大学、行政法人など、)1500億円。企業を含まず。

90%は企業。試作と量産は分けるのが難しい。 レーザー発振器は生産していない。 国内市場においてはレーザー分野でトップ。 世界では3位グループ。

競合は以下の通りで米国勢が1−4位を占める。つまりシグマ光機は5番手。

1. もともとNASDAQ Newport US (SPEのMKSの傘下。700億円の売り上げがあった。発振器も) 部品で400億円規模。

2. Thorlabs US 250億円 部品。未上場。ここが勢あり。

3. Edomond opt 100-150

3. Meles Griat 100-150 5. Sigma 80 億円 もともと官公庁中心。

レーザー研究の黎明期。理化学研究所、東大物理系の先生からの取引中心。 ボリュームがない。一品特注。 産業分野・企業の試作。 いま、FA等の生産ラインの組み込みが始まった。 レーザー用の光学に特化。 発振装置 素子:ミラー、スプリッター、プリズム、球面レンズ、対物レンズ 基本機器:ホルダー、直動ステージ、回転ステージ、 装置まで。

理系技術者足りない。時間がない。 仕様を出すので組み立てまでやってほしい。ワンストップでできる。 埼玉日高に本社工場。

素子とシステム。技術部門。 能登技術センターで機械品。ホルダー。 東京本社。システムアップ。 US, Euro, France,Shanghai 生産拠点。

—黒子に徹する—

観察、 計測、 加工 強力レーザー 業界が広い。多岐に渡る。 特に注目は、半導体は後工程の外観とか異物検査。 FPD装置の方が大きい。位置決め。 レーザーリペア。RGBのパターンの修復、色抜けなどを検査。レーザーをつかってリペア。 バイオ・ライフサイエンス: レーザーの特徴、距離を測定。 航空レーザー的な距離測定。防衛分野。 光通信。

カタログのWEB化をすすめるため、今後のカタログ関連の費用は落ちていくだろう。

 1)ベースとしてはプレミアムゾーンのR&Dや試作。開発部門。

2)upcell FA関連分野。 間に商社が入ったりするが。。。 5000m カタログ需要がベース。プレミアム部分。 ボリュームゾーンである産業分野。 ケースバイケース。

標準品と量産品の収益力の差は?

半分がカタログ、半分が特注。 計画的にできるカタログは安定。 開発要素が強いものは利益がとれない。 ならしてみると変わらない。特に今期は両者同様の利益を稼ぐ。

レンズ: 薄膜製品。光学設計は材質の特性、レーザーとの相性。  

強み。レンズも作れる。ミラーも作れる。プリズムも作れる。 光学の製品の会社は小さな会社が多い。 たとえば、非球面レンズだけは得意という特徴ある小さな会社もある。つまり、よい技術がある小さいところが多いらしい。  

そこで、得意を持ち寄るために、それらの会社群とシグマ光機はパートナーシップを確立している。だから、一部は、仕入れ商品も扱う。

この10年間、計測分野よりも、伸びているのは加工分野である。液晶のリペア(検査も行う)向け。 対物レンズが6−7本、位置決め兼加工用が伸びているという。

また、光ファイバーの融着、位置決め向けも伸びている。その場合、断面加工を施す。 

(光学素子は薄膜塗布の蒸着も内作でやっている。)

ガスレーザー、個体レーザー、波長をとくに選ばずにやっている。

—-電話帳のようなカタログについて—–

Web上で製品紹介ページをUSで始めた。紙からオンデマンドに仕組みを変えている途中だ。

ただし、現場の先生のニーズ。 手元にあってカタログで調べてという古い習慣がある。

実際、同社もカタログで事業を伸ばしてきた。

レンズは1個でも10個でも手間がかからないので、注文を受けると、多めに作っておいて在庫にしていった。それを続けるうちに カタログに載せて、というパターンを巡回して、カタログ事業を広げてきた経緯がある。

そうはいっても、若い先生たちはWebでさっさと注文していく。

シグマはカタログデータの統合を始めた。 海外4社はカタログでの見せ方をWebへと移していく。

===レーザー 古い体質。先生と代理店がつながりが強い。====

古い体質が残っている。いまはカタログとWebと直販で動いている。

ルートセールス強化のため、2002年に東京本社を設立した。

それまでは埼玉の日高で注文を待つ、待ちの営業だった。

セールスが実際に先生のところに営業に行くようにした。代理店を気にしながら、ではあるが。

今後、代理店を経由しないでやっていけるところはやる。とくに、 若い先生方はWebで探すようになった。だが、 古い先生はまだ代理店を重宝している。

先生方も米国では予算があるから、クリックで買ってくれる。日本では 古い先生はカタログだが、若い先生は留学経験が豊富でライバルnewportを平気で選ぶ。 だから、危機感をもって品質や納期や価格で負けられない。Newportの日本営業所は、FAは直販だが、基本は代理店を通すやり方だ。 現地法人それぞれ立てている。 企業は購買が古いタイプは代理店をつかって楽をしている。 シグマの30%は代理店。残りは直販だ。 15%は官公庁。大学も業績。 50%が一般企業向け。

(R&Dや試作向けが中心の同社の流通は、少量多品種だけに、直販が有利とは限らない。日本の地形、7割が山であり、都市部に人口密集地帯があるという状況下では、大都市それぞれに代理店があれば、直販コストと変わらないのではないかという意見もあるのだ。日用品などの世界では二次卸ぐらいまではあった方が直販よりも流通コストは安くなる。ただし、同社がシステム志向を強め、FA等の量産品をさらに狙うのであれば、顧客のR&D部門との直の話し合いに混じった方が良い。今後はセールスエンジニアの生産性と知識と人間力は極めて重要となろう。)

==強みは?===

ファンドがnewportは大株主。中小をM&Aしていった。 いわゆるデパート。統合しないでブランドになっている。 好きなものを選んでください。 組み合わせて何かをするはやらない。 アプリケーション、ユニット、カスタマイズはやらない。

===生産性===

設備の導入。人の拡充は必要。採用は広げていく。

==今期の着地==

国内海外、FDP、半導体の設備投資。 340名 過去に拡大して苦しんだので。固定費増加には消極的。

==特に伸びている==

ここ最近、高性能になったのが、マルチエレメント数枚だけだったが、10−15枚。 対物レンズはシステムにセグメント入れている。 10−15枚入っている。

ワンストップ、FAは納期 競合先が超納期になっている。忙しい。小回りがきかない。 社内フル稼働で短納期で出している。 レーザー向け。 海外の顧客、すべて置き換えをした。 納期の問題。 装置関係。 観察用のものもある。位置決め。観察用。対象物のレーザー位置を確認。 加工用の対物レンズに切り替わる。虫眼鏡。レーザーも焦点がある。 表面がガラス上の何か、対象物の基盤に焦点が当てる。ガラス面のしたで加工できる。 筒の中心をレーザーをとって、マーキングを表面のロゴを加工したりできる。 中のレンズがほとんどが内作。 横の広がり。 レーザーの形を変えることができる。 糸のような広げてシートのようにシート光にして検査ができる。 お得な検査方法だ。

===人員===

営業80人 技術80人 生産150人。 管理部門30人。 上海90名(技術育成中。高精度のものはなかなかできない。近藤さん。若手を派遣) 米国20名 欧州10名

Back to the basic 中期スローガン[アジアNo1から世界No1]

 職人:レンズ、ミラー系 メカ:コンピュータはそれほど職人的ではない。

浜松ホト: 光電子増倍管 電気信号 シグマ : 光を操る。レーザーの向き、形を変える。 お客さんのひとり。 レーザーを電気信号に変えるところでは、浜フォトのセンサーを紹介。 資本提携。取引はあるが、TOP10には入らない。

同じ光業界で浜松もトヨタから資本いれて大きくなった。 昼間輝男さんと杉山社長との関係からそうなった。

材質: プロジェクト。いまだにできていないものもある。 ライバルとして多いのは機械加工は ホルダーとかステージをつくる企業もある。 ミスミの傘下のスルガ精機、中央精機、神津精機との小さなバッティング。 機械加工品を中国からの輸入もある。 進化している。 価格が安いので台頭している。 レンズやミラーは参入障壁としては高い。 米国の4社以外はない。 かつて、順位的には3−4位は、最近元気はない。 1−2位にまけている。コンポーネント単品。 シグマ光機のやり方はシステム対応。ユニット対応。 ニーズに合う。デザイン。 Thorlabo元気。 レーザー発信機:対物レンズは加工用はハイパワーレーザーが鏡筒を通っている。 三ヶ月に納品。1年間のフォーキャスト。3ヶ月対応で分納。 レーザー。追加用。交換用。へたるのか。 リピートがある。 同じ仕様のものを交換する。対物レンズも交換している。 10枚のうちの1枚でもへたれば全部交換。 フィルター。特定波長だけ。20層。100層をつける。 レーザーのハイパワーで損傷期間が短くなっている。 捨てていく。 綺麗な波長ではあるが、綺麗な加工や綺麗な観察はできないので、 単品としてのシステムとコーティング、表面が研磨技術が重要。 綺麗な面に綺麗な膜がつく。

2018年3月取材 

バリューエションについて

量産向けが半分を占めるようになったことで、顧客の設備稼働によっては、リピートオーダーが加わるビジネスモデルへの転換が期待できるだろう。

キャッシュ等、自社ビル、不動産価値など財務内容が良好であるため、一株あたりの資産価値も高い。

ただし、これをどの程度バリューエションに反映させるかは、投資家の考え方による。長期投資の個人投資家であれば、大方、バリエーションに組入れることは間違いではない。

光学素子などは、利ざやが高いため、フリーキャッシュフローは過去10年で赤字はほとんどない。

そういう意味では、ディスカウントフリーキャッシュフロー、特に、株主へのキャッシュフローである配当割引モデルに合致する企業であろう。

カタログが1000ページ、カラー印刷であり、個人からも要請があれば、無料で送り届けるというビジネスであり、ここは、数年のうちにWEBベースに転換すべきではないかと会社側に問いかけている。それによる効率化、カタログ代金、発送代金は1億円程度はざっとあるため、その分のコストダウンは決して小さくはないからだ。特に、若手の研究者へのアプローチを積極的に行っていくべきだろう。

リスクはフラットパネル装置の受注の減速である。

円高は間接的に競争力にマイナスである。

 

2018年12月27日銘柄研究所

Posted by 山本 潤