Rolling Stones  -ある兄弟の話-  

ある兄弟の話をしたいと思う。 弟は丁度100年前に生まれた。 中村兄弟の話だ。兄は徳郎という。弟は克郎という。 兄は戦争で死んだ。弟は「きけ わたつみのこえ」(岩波)の編集者となった。

兄の徳郎は学徒出陣で戦地へ赴いた。生きていれば日本初の仕事を多く成し遂げたに違いない逸材であった。

岩波の「きけわだつみのこえ」を読んだときのことだ。徳郎が克郎に託したものがあることは手記からわかった。

調べるうちに、克郎が兄の手記をもとにして「はるかなる山河に ー東大戦没学生の手記ー 」を編集、のちに岩波の「きけわたつみのこえ」の編集者となったことを知った。そのとき、「やっぱりな」という思いを持ったのだ。

徳郎の手記を読んだとき、その人柄に惚れてしまった。また、その考え方に深く共感してしまった。70年の歳月を超えて、わたしには普遍的なもの、時代を超えたものに触れた感慨を持ったのであった。中村兄弟の話を、息子に伝えたいと思ってこれを記す。次男は、大学受験に失敗。挫折を味わった。そんなとき、この兄弟の話をしてみたのだ。徳郎については、時折、次男に話していた。次男にとって、中村兄弟はすでに、身近な存在ではあったのだが。

=== 中村徳郎の考え方 ===

国は滅んでも偉人が人類に成した業績は滅ばない。 たとえば、ポーランドは滅び興りまた滅ぶという歴史を繰り返してきたが、ショパンやキューリー夫人の功績は滅ばない。 自らがやろうとしていたのは人類への貢献であって、それを通して日本へも貢献するというのが兄徳郎の考えであった。

人類の生活の根底を豊かに富ます機縁となるべき人材を育てることによって、その民族の偉大さを価値付けようとしていた。 自己には絶えず厳しく、学問に身を捧げることで日本を含む世界に貢献するんだという強い気概を持っていた。

また、出征の折に、彼は語った。

「ともかく早く教室へ帰って本来の使命に邁進したい念切なるものがあります」

「自分がこれからしようとして居る仕事は、日本人の中には勿論やろうという者が一人もいないといってよい位の仕事なのです」

「その仕事をやり遂げることが、戦に勝って島を占領したり都市を占領したりすることよりもどれほど真に国威を輝かすことになるなるかしれない」

「自分を斯く進ましめたのは言うまでもなく辻村先生の存在が力あります。同時にモリス氏の力を除くことができません。 氏は私に、真の人間たるものが、人類たるものが何をなすべきかという事を教えてくれました。又学問の何物たるかを教えられた様な気がします」

国家の決まりも、目先の勝敗も、大事だが、だが人として生きることも同時に大事である。学問を志すならば、その業績は国家というよりも人類共通の遺産となる。

そう考えていたと私は思う。

==徳郎の日誌 抜粋 ==

1943年2月20日

学問が時世をリードすると言ふのでなくてはならぬ。然し現在では学問が時世にリードされて居る。

一体どうしたのいふのだらう。寒心に堪へない。

1943年4月13日

「目前の利益に捕らはれて、過去を鑑み歴史の重ずべきを識らず、前途を望み将来を夢見て、理想に憧るる事を識らず、 永遠を思慕し、無窮を追求し、大局を洞察することを忘れるものは、個人も、時代も、国民も、危ないかな、危ないなだ。」 (立沢先生)

1943年8月5日

稲田兄の追悼録が送られた来た。一日これを読む。一人感慨無量なるものがある。 市川の静養所に在った彼が、余命幾何もないのを知ってか知らずでか、「複素函数論」「仏蘭西語四週間」を読み、歌句をものしていたのを知っては 深く我々の胸をえぐられるやうな気がした。

我々は我々の最後まで自己に忠実でなければならぬ。最後まで我々の本文を放擲してはならない。

1944年3月5日

人々の邪悪さと運命の酷薄さとの間にありながら善良であり、いつまでも善良であらねばならぬ。 最も激しい逃走中にも温和であり、悪い人間にあっても善良えあり、戦いの最中にも平静でありたい。 -中略- 真理への思慕を喪って国家の隆昌はない。

1944年5月13日

生かされているのはではない。生きるのだ。 すべて待つがいい。

== ローリングストーンズ、転落する石 (絶望の中に、それでも光を持て) ==

「もっと勉強がしたかった」と手記に書いている中村徳郎は、旧制一高の旅行部あるいは山岳部に在籍していて、 穂高東面の往時の山行を撮影した写真集もあり、また北アの霞沢岳三本槍の初登攀をし、ドイツ人登山家カールビルス氏の遭難救助した。

そのころ、東大理学部地理学科の辻村太郎(地理学者 1890-1983)教授と兄の徳郎は日本初のエレベスト登頂を目指す計画であった。 徳郎は、第一高校時代は、中国からの留学生と親交を深め、来日していた英国人の登山家・探検家であるJohn Moris氏を敬愛していた。 (Moris氏は英国BBC放送の解説者であった)

徳郎は、日本というよりも日本を含む世界、日本人というよりも日本人を含む人類を念頭に置いていた。 真理への思慕を持ち、ジョン・モリス氏から贈られた言葉、Devote yourself to Science!をいつも胸に秘めて軍隊生活を送った。

徳郎はずっと一兵卒であった。なぜならば、第一高校時代、教練の授業をすべて欠席したからだ。 軍事教練の単位は落第。そのため、将校幹部にはなれない。 あえてそうしたのであった。

第一高校は、徳郎に卒業せずに軍事教練の単位のために一年の留年を勧めたが、すでに徴兵令状が届いていた。 辻村教授が一高の安倍校長に掛け合い、一高所属ではなく、東大理学部地理科の学生として行かせたいとして、徳郎の卒業を認めさせたという。

東大理学部に入学したその日に軍隊に入ったので徳郎は入学式には行けなかったという。 徳郎は習志野の戦車部隊に配属されたのであったが、辻村教授の計らいで、比較的安全な事務職である陸軍の気象班への移動を打診されるが、 「不正を働いてまで生きたくはない」と徳郎はその話を断ってしまう。

その後、医師の父親が友人の習志野陸軍病院の院長を説得。 徳郎が病院を訪れるならその場で診断書を書く段取りを整える。 そして徳郎を除隊させるようとするが、肝心の徳郎が度重なる催促にも病院を訪れない。 「要はニセ診断書を書いてもらうということだろう?」と、その話も断ってしまう。

徳郎は自分の命が惜しくなかったわけではない。ただ、自分が不正を働くと、そのころは、特高警察や隣組制度など、 家族や親戚までが吊るし上げにあう社会であった。「あの家族はみんなグルだ。非国民だ」といわれることがわかっていた。 そういう卑劣極まりない社会であった。 だから、徳郎も、わたしは病気です。だから、除隊しますとは言えなかったのだ。

軍隊から徳郎が一旦帰省するタイミングがあった。 そのとき、父親は、徳郎を木刀で殴り「戦争で海外で殺されるぐらいなら、俺がいま、ここでお前を殺す」といって殴り続けたが、弟や母が止めに入った。 大怪我を負わせて診断書を書き、除隊させようとしたのであった。 そのときも徳郎は「父さんが正しい」といって黙って殴られ続けた。

徳郎は読書家であった。特に、何度も繰り返し読んでいたもののひとつが「ドイツ戦没学生の手紙」(岩波書店)だ。 徳郎は書いている。

「彼らは真摯だ。塹壕の中で、蝋燭の灯の下で、バイブルを読み、ゲーテを読み、ワグネルに想いを寄せる彼らは幸福である。」と。

徳郎の外地出征となる日が近づく。一兵卒では電報も打てないので、学友の将校に頼み、実家に電報を代わりに打ってもらう。 その日、本所の実家は疎開で慌ただしく、弟の克郎が習志野に面会にいく。 そのとき、兄弟は1時間ほど話ができたという。 習志野の軍隊では、克郎は「面会日ではない」といって面会を拒絶されるが、 「どうしても今会えないともう会えない」といって必死で門番を説得した。

ちょっと待ってろ、と門番兵が言って、掛け合い、面談が許可されたという。 弟が面談室で待っていると兄がやってきて、「おお、あーちゃんか」と声をかけた。 あーちゃんとは赤ちゃんの意味で、中村家では7歳年下の弟のことを「あーちゃん」といって可愛がった。

将校が見ていない隙を狙って、兄が上着のなかに隠してあったものを、弟へと手渡した。 それは一冊のノート、徳郎の手記であった。 徳郎は「これは、日本戦没学生の日記だ」と言った。 克郎はすぐにこれが、「ドイツ戦没学生の手紙」の今度版だ、と思ったという。(ノート表紙は「日本戦没学生の手記」と題名があったが、危険を避けるためか青いインキで題名は塗りつぶされていた。)

兄は、弟に、「ドイツ戦没学生の手紙」を読むように勧めていたからだ。 克郎は「兄さん、こんな戦争なんかで死んではダメだ。日本初のエベレスト登頂はどうするんだ?」というと、兄は、こう答えたという。 「もう遅い。なぜ、あのとき、命がけで反対しなかったのだろう※。ローリングストーンズ(転落する石)だ。もう遅い。

(※河合栄治郎事件。東大教授としてファシズム批判の論陣を張ったが、1938年河合のファッショ批判の書籍が発売禁止となる。そして翌年、東大から休職を命じられる。多くの学生がこれに抗議したが、河合を守ろうとしたものも同時に摘発されたことを見て、多くは命をがけて河合先生や学友を守ることができなかったことをさしていると思われる。)

日本はなし崩し的に治安維持法等が強化され、戦争に反対できない異常な国民管理体制へと自己強化されていった。 徳郎は「なんとかしなければ」と思い続けた一人であったが、時流に飲まれどうすることもできなかった。

そして、次が最後の言葉となった。 「あ、そうそう、岩波文庫は全部買っておいてくれ」。

それは、徳郎が戦争から生きて帰ったら、そのときに読むから、という意味にもとれたし、 克郎、お前は岩波をちゃんと読め、という意味にもとれたという。

出征には、カエサルのガリヤ戦記(岩波文庫)、フイヒテ・獨逸国民に告ぐ(同左)、ゲーテとシルレル往復書簡集。 Carossa Rumaenishces Tagebuch., Mountain Essays, 最近世界史年表、岩波全書数冊等を帯同した。

兄の徳郎は、弟が戦争で死なないために、弟には医学部へ行くように諭す。 文系はすぐに戦地だが、軍医はまだ死ぬ確率が低いと考えてのことだった。 弟は「ペーペーの若い軍医は戦争の第一線に送られるからどうせ死んじゃうよ」と兄に告げると、 兄はこう答えた。「それまでにこの戦争は終わっている」。

徳郎が徴兵された後になり、克郎に東大の医学部の教授から電話がある。 徳郎はその教授に弟が医科にいくようにと説得の電話してくれと頼んでいたのであった。 弟はその通りに、医学部へ進学する。

昭和19年。徳郎戦死。

そして、戦後、兄の手記を読み返した克郎は、これをぜひ出版したいと岩波文庫の吉野源三郎氏に相談する。 吉野氏はこれはいい、だが、分量が足りない、他の戦没学生の手記も集めて出版しよう、という話になったという。 ぜひ、岩波でという話でもなかったので、克郎は東大自治会での戦没学生の手記の出版を提案した。 戦争へと学生を送った教授たちの主導ではなく、自ら戦争に徴収された学生側からの出版にしなければ、という思いだったという。 生協を中心にして、まず、戦没した東大学生たちの手記が集められたという。

塩山 わだつみ平和館

弟の克郎は、徳郎の遺言に添い、岩波文庫をすべて買い揃えた。

克郎は自分の息子に徳郎と名付けた。

塩山駅から徒歩12−13分程度の中村の家(旧中村医院)は、いまでは、甲州市教育委員会に寄贈されている。「わだつみ平和文庫」として克郎氏の長女はるねさんが文庫を平成20年に開館していた。文庫は三万点以上の資料、本が収蔵されている。徳郎から克郎へと渡された一冊のノートがそこに展示されている。

訪問される方は、あらかじめ、甲州市教育委員会生涯学習課社会教育担当 0553−32−5097まで問い合わせれが必要だ。

中村家の菩提寺 正覚寺は塩山駅から徒歩10分程度。

正覚寺

徳郎の手記には、メンデルの言葉、「見ていてごらん、今に私たちの時代がくる」とあった。克郎は、それを菩提寺正覚寺の中村家の眠る場所に墓碑として刻んだ。メンデルの法則で今では有名なメンデル。その業績が認められたのは彼の死後16年後のことであった。

「見ていてごらん、今に私たちの時代がくる」と弟は兄の言葉を刻んだ。正覚寺にて。

わだつみ平和文庫

真剣に。真摯に。だが、楽しく。Seize the day. Make your life extraordinary. 
=== 次男へ 父より===

この場を借りて、私事ながら、二番目の息子への父からのメッセージを書いておきたい。

これまで順風満帆であった。今回の東大文1の不合格は人生での初めての挫折となっただろう。

公立中学では内申書でオール5。学級員、野球部キャプテン。都立日比谷高校に進学し、SSHでは海外派遣され、スタンフォードやシリコンバレーも見学した。 直前の模試でもA判定であったので、自分では落ちるはずがないと思っていたと思う。

逆にわたしは、官僚になることに拘るお前の気持ちは父として応援はすれども、理解し難いものでもあったのだ。 わたしはといえば、官僚の真逆。これからの時代は、集団行動や規則などはあってもないもののように振舞うべきだと考えているからだ。 

大学受験については、意見はない。それより、父親というものが息子に求めるものは、職業ではなく、生き方なのだから。

大学院も不要な文系に行き、最短距離で国家公務員試験の勉強。官僚がダメなら弁護士を目指す。そんな職業を目指すという生き方。 本当にそれでいいのだろうか。いま、一度、自問自答してみてはどうか。確固たる目標がない学生が多い中で、そのような具体的な目標を持つことは悪いことではない。目標を持つのは重要だ。だが、その目標が心からの憧れからきたものであってほしいのだ。目標への「強さ」はどうなのか。 本当に好きなことをやっているのか。 もう一度、考えて欲しい。

いま、この初めての逆境の中で、最も辛い時期にこそ、厳しく問いたいのだ。 

わたしとしては、自由闊達、だが、もっとも過酷な学問の世界で自己と戦うとか、あるいは世界を放浪するとか、出来る限りの自由奔放な生き方をしてほしかった。

高校二年のときに、ハワイ天文台を訪れた。中学のときは、NASAに憧れた。比較的英語や国語が得意で、数学が特に秀でているわけではないという理由で文系を選んだ選択は本当にそれでよかったのだろうか。

そもそも、「男を育てたい」というわたしの父としての願望には、大学や就職は最重要なことではない。 お前は浪人になれば、お金がかかるから申し訳ないと私に昨夜謝ったが、謝る必要は全くない。

それよりも、友達を裏切らないこと。 生涯、最後の最後まで友人を守り通せといいたい。 さらに、いつも、いかなるときも、弱気を助け、強気をくじけ。 そして、本当に強い男、かっこいい男になってほしいと願う。 職業や商売について。 それらは人生を賭ける価値のあるものだろうか。

徳郎さんの手記に「真理への思慕」という言葉がある。 困難なもの、達成もできそうにないもの、何度も挫けずにはいられぬものへの憧れや畏敬はないのだろうか。 意義あることをなせ。 そうするならば、必ずお前の周りには仲間や支援者が現れるだろう。

「君たちの未来は明るい。間違いなく明るい。迷いながら、悩みながらで構わないのです。ゆっくりと進んで行ってください」と担任の豊川邦子先生もおっしゃっているではないか。(日比谷高校PTA会報168号より)

中村兄弟の話や戦没学生の日記を読んでも、お前たちはただ、「ああ、大変な時代だったんだなあ」と思うだけかもしれない。それだけではなくて、「人生は有限」であることを心から理解してもらいたい。もし、有限さを理解できるならば、残された時間、人生は真摯に真剣に生きなければもったいないことに気がつく。もちろん、いま、目の前をことを全力で取り組むのが当然だが、超長期の展望を持ってほしいのだ。

浪人時代、何に取り組むかは自分で考えるとして、一般的には、さらなる教養・学力はつけておいて間違いではない。これまでのことは無駄ではなかった。よく頑張ったと思う。

1)受験英語を実用レベルまで引き上げる。

2)地理と歴史は、旅に出て体感する。体力と智力をつける。

3) 回り道を厭わない。

4) 文系ならば歌・詩・文学に親しむ時間を持つこと。受験勉強だけではなく。恋愛も恐れなくてよい。

– 2018年3月10日 次男東大受験不合格の日に。父は願う。君が人生において意義あることを成すことを。だが、いまは、ゆっくりやすみなさい。  父より -

アペンディクス  

中村徳郎(1918-1944)は第一高校を経て1942年東大理学部地理学科入学。同日千葉県習志野東部第九部隊に入営。 1944年6月比島方面に向かい以後行方不明。家族や旧友たちを笑わす愉快な人柄だった。おならを何発も連続で撃てるのが特技だった。日本を代表する登山家としてエベレスト登頂を目指していた。辻村太郎教授の陶酔を受けて、東大理学部地理学科に進学が決まっていたが、入学式当日に入隊したため、東大の入学式には出席できなかった。モリス氏からチベットの話を聞き、エベレストへの憧れを抱くようになった。モリス氏は、チベットの壁画のある部屋でチベットの銀の匙で紅茶をかき回しながら徳郎に、’Devote yourself to Science!’と語った。その言葉を胸に秘めつつ、外地へと出征していく。

中村克郎(1925-2012)は昭和後期-平成時代の社会運動家。 大正14年3月31日中国漢口生まれ。山梨県塩山市の産婦人科医。 昭和22年東京帝大戦没学生の手記「はるかなる山河に」,24年他校の学生をふくめた手記「きけわだつみのこえ」の編集・刊行に参加した。 45年わだつみ会理事長。平成20年わだつみ平和文庫(中村徳郎・克郎記念館)が開館された。平成24年1月22日死去。86歳。東大卒。

辻村太郎(1890-1983)は地理学者。第一高校ー東大。日本で初の地形学の教科書『地形学』を1923年に出版した。また、欧米と日本の代表的な地形を紹介した。 その後も、地形学関連の出版を続け当時の地理学・地学関係に大きな影響を与えた。また1930年代には景観地理学の重要性を唱え、景観(独:Landschaft)という概念を人文地理学に組み込もうとし、賛否を含め当時の日本の地理学に大きな波紋を呼び起こした。門下生も多く、各地の地理学教室にも影響を与えた。『日本地形誌』(1929年)、『新考地形学』(1932・33)、『断層地形論考』(1943年)など多くの地形学の著作を刊行している。(wikiより)

Morris,John (1895-1980)  イギリスの登山、探検家。初めはケンブリッジのキングス・カレッジで人類学を学ぶ。20歳から40歳までの間、軍隊に入り、主として、アフガニスタン、インド北西辺境で勤務。インドのグルカ連隊付となり、グルカ兵と共に過ごし、その経験から「The Gurkas」:1928を書く。この間、中央アジア、ネパール、ブータンに足跡を残した。1923年(1922年が正しい・横山)、1936年のエベレスト隊員としても知られる。最もそのキャリアで価値高いものは、1927年のH・モンタニエーとのフンザ北辺(特にシムシャールやグージェラーブ谷)の探検である。 第二次大戦直前に来日し、5年間滞在。帰国してからはBBCに入り、対日放送の任にあたった。

「横山厚夫杉並山房便り」

http://www.hon-s.co.jp/hirata/newpage16.html

には、以下の記述がある。

————-

船越好文の写真集『雪線』(白水社)中の「前穂の東面」(1939年3月撮影)には2人の登山者が点景として写っているが、その1人が中村徳郎だという。以下は、その写真に添えられた一文である。「氷雪の殿堂。私どもの登高意欲をそそる。二人のクライマーよ、いつまでも手を握り合ってくれ、二人を結ぶザイルよ、絶対に切れないでくれ。残念ながら、この一人は欠けた。トクさん-中村徳郎君である。当時、第一高等学校山岳部ではなばなしく活躍していたのだ。『聞け、わだつみの声』をも一度ひもといて欲しい。彼の声、穂高に呼びかける声。

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登山する徳郎

河合 栄治郎18911944)は、日本の社会思想家、経済学者第二次世界大戦前夜における、著名な自由主義知識人の一人。

吉野源三郎(1899-1981) 編集者児童文学者・評論家翻訳家・反戦運動家・ジャーナリスト昭和を代表する進歩的知識人。『君たちはどう生きるか』の著者として、また雑誌『世界』初代編集長としても知られている。岩波少年文庫の創設にも尽力した。

1918年(大正7年)、旧制第一高等学校に入学。1922年(大正11年)、2留の末第一高等学校を卒業し[1]東京帝国大学経済学部に入学。思索の中で哲学への思いが高じて文学部哲学科に転部した。

1925年(大正14年)、26歳で東京帝国大学文学部哲学科を卒業。思い立って陸軍に入隊する。除隊後の1927年(昭和2年)、東京大学図書館に就職。このころから政治に関心を持ち、社会主義系の団体の事務所に出入りするようになる。1931年(昭和6年)に治安維持法事件で逮捕される。このとき抱いた軍国主義への不信感が、後年の反戦活動、理想主義的な思想体系を形作ったと考えられる。

1935年(昭和10年)、山本有三の「日本少国民文庫」編集主任に就任。1937年(昭和12年)には明治大学講師[2]に就任。この年、『君たちはどう生きるか』を刊行し、岩波書店に入社[3]1938年(昭和13年)、岩波新書を創刊[3]1939年(昭和14年)、明治大学教授に就任。戦時中も一貫して独自のヒューマニズム論を展開した。

1946年(昭和21年)、雑誌『世界』を創刊し、初代編集長に就任[3]。いわゆる「戦後民主主義」の立場から、反戦・平和の姿勢で論陣を張った。1950年(昭和25年)4月15日平和問題談話会を結成し、1951年(昭和26年)の対日講和条約に関しては、米国を含む52ヶ国との単独講和ではなく、ソ連中国も含めた全面講和論を主張した[3][4][5]1959年(昭和34年)、「安保批判の会」結成に参加し、1960年(昭和35年)の安保闘争で活躍。この間、1949年(昭和24年)に岩波書店取締役、翌年に岩波書店常務取締役、1965年(昭和40年)に岩波書店編集顧問に就任した。(wikiより)

カエサル・ガリヤ戦記(岩波文庫) 本書は全8巻からなり、紀元前58年から同51年にかけて8年間にわたるガリアゲルマニアブリタンニアへの遠征について記述している。なお、第8巻のみカエサルでは無く、カエサルと同時代のアウルス・ヒルティウスが執筆している。モンテーニュをして「最も明晰な,最も雄弁な,最も真摯な歴史家」と賞讃せしめた。

フイヒテ・獨逸国民に告ぐ(岩波文庫) 1807‐08年の冬にベルリン学士院で行なった連続講演.前年のナポレオン戦敗北に直面して,熱烈な祖国愛に燃えたフィヒテが,ドイツ国民に呼びかけて道徳的向上を促したもの.彼は国民の独立のためには国民全体の道徳的革新が不可欠と考え,その手段を青少年の教育に求めて公教育の徹底を主張した.

ハンス・カロッサのルーマニア日記 (Carossa Rumaenishces Tagebuch)

1910年、36歳でニュルンベルクへ移るが、1914年の第一次世界大戦勃発直後、ミュンヘンへ移住した。ここでシュテファン・ゲオルゲライナー・マリア・リルケを知った。志願して軍医となり各地に転戦し、陣中で『幼年時代』や『ルーマニア日記』の草稿を綴ったが、負傷して帰還した。

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