株式価値の理論の第一人者 杉江雅彦 同志社大学名誉教授 86歳誕生日インタビュー (yamamoto)

-株式投資最前線の松尾チャンネルでお馴染みの円創会ストラテジスト松尾範久さんの師匠にあたる同志社大学名誉教授の杉江雅彦先生をお招きしてしました-

今回は、特に松尾さんのご尽力により、奈良に御在住の杉江先生に上京していただきました-

2017年10月18日 晴海トリトンにおいて、86歳の誕生日をお迎えになった杉江先生と松尾さんとわたしとで三時間にわたるインタビューを行った。事前に杉江先生からお手紙をいただき、松尾さんが、その内容をスクリプトに起こしました。そのスクリプトをベースに、インタビューの内容を加えたものが以下の内容になります。一部、わたしの勝手な咀嚼があるので、わたしの間違いの部分、思い込みの部分があるかもしれません。

なぜ、いま、杉江雅彦なのか? 

わたしが、杉江先生にどうしても会いたかった理由は、先生が投資価値の本を出版された1960-1980年代には実務的に不可能であった個別銘柄間の共分散がいま、個人投資家のPCで一瞬で計算できるようになったためだ。また、わたしは PERやPBRという指標よりも、投資家にとってのフリーキャッシュフローである配当をベースにした配当割引モデル(2-3段階)を実務上使用すべきという立場を明確にしている。DDMについての成長バラドックスをわたしなりの工夫で解決した件を先生に聞いていただき、感想をいただくというのが目的のひとつであった。さらに、先生は86歳とご高齢であるため、先生の金融市場における功績を書き留めたいという思いもあった。先生の先生にあたる住之江佐一郎というDDMの日本における大家のこともお聞きしたかった。

日本株投資家の間では、高成長でありながらも実は低リスクである銘柄群が存在することはあまり知られていない。だが、杉江先生が学位論文で取り上げられたマコービッツ理論はいま復活させる時期が到来したとわたしは考えている。低リスク高成長銘柄群の中から数銘柄の最小分散ポートを提供していくというのが、わたしの今後の目標のひとつである。それが簡単にできる時代になったこと、個別株のリスクプレミアムを具体的に計算できる時代になりつつあることから、いま、歴史を振り返り、なぜマコービッツ理論が忘れ去れてしまったのたか、についても読者は関心をもって読んでいただければ幸いである。

住之江先生の功績  DDMの日本への移植

日本でDDM(配当割引モデル)といえば、住之江佐一郎だが、彼のDDMを私自身がバリエーションとして少し改良したものを使っていたので、 杉江先生に、成長のパラドックスを避ける工夫について、わたしの方からご説明を申し上げたが、杉江先生は、なるほど、そりゃ、うまいこと考えましたねと いわれたので、素直にわたしは嬉しかった。それだけでわたしの目的のひとつは達成されたというわけだ。よかった、よかった。

(写真は住之江先生)

もうすでに先生の先生である住之江先生は故人ではあるが、住之江先生も日本の証券史に大きな足跡を残した人だ。 なにせ、明治元年からオイルショックまでの証券関連の書籍の目録つくりをライフワークにしていた学者だ。 その志を継ぐべく、オイルショック以降の証券関連書籍を整理する大事業をライフワークにしたいなと思っていた。

住之江先生の弟子ともいうべき杉江先生へのインタビューはわたしの強い要望でやっと叶ったのであった。 杉江先生の数々の書籍を巡って、いろいろな思い出を聞きつつも、先生の60年にわたる証券業界への貢献の足跡を残したいという思いから、 メモを必死にとりました。

—杉江先生学部時代の思い出—

同志社の学部時代の思い出について。 今と違い、学生に、 「会社訪問なかった」。 「就職は教授の推薦か縁故かしかなかった」

成績順で選ぶのが推薦だが、先生の成績はそれほどではなかった。 縁故もない。

それゆえに一般試験で、倍率数百倍の新聞記者に応募した。 1000−2000人が受ける神戸新聞記者の一般試験。 ところが、これに合格してしまう。

ゼミの恩師の先輩が神戸新聞の社長で、その社長がわざわざ京都の先生の実家に来られた。 そのとき杉江先生は留守。先生の両親が対応したのだが、親が勝手に就職を断ってしまう。 親の方針は、「新聞記者と船乗りにはなるな」であった。 恩師は一橋出身の長尾義三 同志社大学教授であった。 

長尾先生は、同志社では学生から不人気であった。金融論だったが、なにせ、すべて落第させてしまうほどの厳しい先生だった。 ゼミは少ない人数、たったの8人しかいなかった。だがよかった。経済学はマルクスではなくて、ミクロ経済から始めたからだ。 「世にも不思議な金融論」であり、かなり抽象的なテキストをつかった。 実際、何が書かれているか、理解できないほどだった。

大学院も長尾先生のゼミだった。だが、杉江青年は 同志社大学に残る道は閉ざされてしまった。 先輩(2年上)が金融論の助手ポストに採用されてしまったからだ。

杉江先生のいくポストは同志社ではなくなってしまった。 大学院に行く歳、長尾先生から、金融はやめて、証券学をしなさいとのアドバイスをうける。 そのうち、君のために大学に証券講座をつくるからといわれた。(7−8年後に本当に実現することになる)

証券といえば、そのころは、米国であった。米国の書物を研究していた。 1929年大恐慌や投機の研究をしていた。 そのころ、米国では銀行がレバレッジで株式を買っていた。当時は銀行と証券との境目がなかった。 ニューディールの中で証券の取引をFRBをチェックするという、マージン取式規制、グラススティーガル法が成立していた。

投機について、学会では(当局でも)批判的な立場が大多数であった。

1)投機は本来ならば経済成長に使うべき資金を費やしているという説

2)そうではない説。ドイツのフリッツマハールが展開していた。

杉江先生は、資金拘束説をとらない学者であった。

投機をテーマにした。マージン金率を定める権限をFRBに持たせようとチェック。 日本では昭和25−26年に信用取引が導入。 そのころ、銀行が証券を通して貸す余裕がなかった。そのままUSのシステムを導入。 日銀からの借り投資家に貸す、日証金、大証金ができた。

さて、杉江先生の修士論文の審査のとき、 学部長が審査員長であった。 ところが、株や投機という文字を見ただけで、学問ではないと切り捨てられてしまう。 論文のテーマについてさえ話をきいてくれない。株なんかをどうして対象にしたのかと叱責されてしまう。 相場屋、株屋と見られたのだ。学問対象にはならないと。

それでも、投機の社会的な意義があるから、それを説明したが、他人の審査よりもかなり長くかかってしまった。

— 大学院で証券をテーマに選んだ理由 —

・学部時代に金融政策を卒業論文に選んだこと。 指導教授から証券論にするののも良いとのアドバイスを受けたこと。

・そこで大学院の修士論文は金融政策と株式市場への資金流入の関係を主として米国の事情を中心に論じた。 当然ながら日本の信用取引も対象にした。

大学院修了後、最初に研究対象にしたのがポートフォリオセレクション

・大学院修士課程修了後、直ちに同志社大学には行かず数年間、大阪北浜で証券市場と米国経済の研究調査業務に就いた。

京都学国語大学に大学講師としていなさいといわれたが、することがないというと、「ただ、ぶらぶらしておれ」といわれた。

商業科の高校で教えた。研究もなにもできないので、大阪の証券研究所につとめることにした  昭和33年の秋。 熊取谷 武(1906-1993)さんに師事、 仕事はフィナンシャルタイムズやウォールストリートジャーナルの記事の訳をすればよいことに。

野村信託にいた方がS36ぐらいナショナル証券(松下幸之助創設)の調査部長にならないかという話があった。 大阪証券研究所は、証券各社の全体の研究員なので、 ナショナル証券へ「出向」という形ならよかろうということで調査部長をさせられた。 29歳。ひがまれた。若すぎる部長であった。まわりは年上の人ばかりだから。

とにかく、そのころは、学位論文(ドクター)をはやく出したかった。 1959年に出版されたハリー・マーコヴィッツの“Portfolio Selection”という著書は 日本で誰も紹介していなかったので杉江先生がその嚆矢となった。(1953年に論文) ・マーコヴィッツの研究は多くの株式を同時に保有するファンドが リスクとリターンをどのように配分するか(銘柄選択)について統計手法を用いて選別するもので理論的な精緻なものだったが、 具体的な計算数が多く当時のコンピューターの能力では時間がかかり、経費も高くついたため、実務界ではほとんど利用されなかった。

Portfolio Selection by Markowitz

それを改良したのがW.シャープのβ(ベータ)理論である。 証券の人々は金融の研究者には関心を示さず。証券の学者ではこれはやっていなかった。 なのでそれを紹介した。これが大きな杉江先生の業績である。

William Sharpe

 

-Risk とReturn-

(それまでの分散投資論はたまごをひとつのボールに盛るなだけだった)

予想収益とその確率(偏差)分布は証券理論の基礎であるが、それは株式変動率の期待値とその分散について考えるのである。 そこまではよい。 だが、実際、ポートフォーリオのリスクとなると共分散(covariance) を計算しなければならない。だが、500の銘柄の共分散は12万にもなるので実務的ではなかった。マーコビッツの理論は計算機が高価な時代では普及は難しかった。当時は 手動のタイガー計算機であったので。

日本の国政を見ても、60−70年代は日本社会党が強かった。国会での議論は株式投資は反社会的とされた。 そのときは民社党までも株式投資には反対であった。

Sharpeの理論でインデックスと個別株の共分散だけでよくなり、500銘柄でも500しか求めなくてよいから、共分散の計算はうんと楽になった。 それがSharpeの功績。このようにしてベータは現場に普及する実務的なものとなった。

杉江先生は、1974年(S49年) 信託協会から研究費として50万円をもらえたので、そのお金でニューヨーク+ボストンに行った。ロックフェラー財団の運用を見に行った。ハーバードにもいった。 メリルの方は、マコービッツ理論をビジネススクールでしかならっていない。 15年たっても実践ではマコービッツは使えなかった。

趨勢はインデックスファンドに向いていた。 北米に留学したとき、ブラウンブラザーズを訪問。かれらとハーバードにいった。 実は1974年ベトナム戦争の終わり。 軍需株はハーバードは嫌いだった。基金をフィデリティは運用していた。 そこに軍需株が入っていたので外せとフィデリティーにいったら、フィデリティは、口を出すな。 口を出すなら首にしろと。だから首にした。運用する人がいなくなったので、大学は素人運用で細々とやっていた。 ブラウンブラザーズの方に、運用者を探しているんだけど、ハーバード出身がいいなとハーバード基金が相談すると、 待ってました。そのブラウンブラザーズの方は、ハーバードのスクールTieを見せて、俺にやらせてといったという逸話。

そのころ、同志社では、金融論に加えて、証券論講座を長尾先生が杉江先生のためにつくってくれた。いまも講座があるがやる人がいない。 後継者はわざとつくらなかった。 一代限りでよいと思っていた。 やめて15年経つが、長尾先生が杉江先生のためにつくったのだから、一代講座として、退官後は、もうこれでやめることにした。

—-住之江先生との出会いの話—

・住之江先生にお目にかかったのは、小生の北浜時代から。大阪証券取引所調査部主催の月例研究会の席だった。 インベストメントという雑誌をだしていた。 住之江佐一郎 証券経済学会1966年 に同志社にいった。発起人のひとりが杉江先生。 その前から知っていた。 それまでにもご著書は読んでいたため、親近感は抱いていたが、個人的におつきあいしているうちに、すっかり魅せられてしまった。

住之江先生は慶応出身。 卒業後、独立したが、自分が関係した会社はつぶれるからといっていた。 その後、立命館大学の教授に50代でなられた。 執筆のスピードがすごい。あっというまに数冊の教科書を執筆した。 株式価値論。証券分析の価値。ダイヤモンド社から出した。 まさに、滝のように書いた。 文庫本も多く書かれた。

・杉江先生が同志社大学に勤務してからは共著書も書かせてもらい、次第に先生のご専門である株価分析論のお手伝いもするようになり、 株式に関心を寄せるようになった。酒席での話題にも事欠かない洒脱(しゃだつ)なお人柄だった。

–株式の価値についての実践的議論–

・住之江先生の株式理論はその基礎をJ.B.ウイリアムスの「投資価値の理論」に求められるが、 ウイリアムスは株式の投資価値とは「株主に対して支払われるべき配当の現在価値」であるとし、 資本還元率(割引率)を特に重視している点が高く評価された。 配当請求権で法律的にやっていた。理論構成がかっちりしていた。 ずばずばおっしゃる人。

副島保さんとの論争は、住之江先生は、「杉江くん、わたしが相手をするほどの相手ではないから、軽く君があしらっておけ」といわれ、杉江先生が反論を受け持った。

5−6年後「株の科学」を出した。 売れる本、カッパブックスで。その前に「ゴルフの科学」が売れたから。 そのころ「危ない会社」という本もヒットしてたが、書いた教授は危ない教授といわれたという逸話。

住之江先生は、明治40年生まれ、酒は強くないが好きだった。 北新地、高級であった、バーとかクラブの間にフジイ(宝塚出身のママ)というバーがある。 結構高級。ひどいときはステテコになってうろうろした住之江先生。 酔うとキスさせろとカウンターの隅まで追い詰めてママと遊んでいたという。

研究会のあと。おい、一杯行くかと住之江先生が杉江先生を誘う。 ちょっと、新聞かってこいと学生に新聞を買いに行かせて、住之江先生は株価蘭をみる。 自分が持っているちゃんと株が上がっていることを確認すると、「さて、行こう!」となったという逸話。 京都の証券会社の外務員と売買していた。 選びの方も専門家であった。

住之江さん、テクニカル協会の会長。 いまから10数年前になくなった。 83歳でなくなれた。いい人だった。

杉江先生の三人の恩師。

住之江先生。

同志社のゼミの先生であった長尾先生。

大阪研究所の熊取谷先生。

杉江先生は、証券研究所のときは、京阪電車で京都新聞にも書かれていた。アルバイトも新書。 大学院の英語はWall Street, Financial Timesから。 京大でも教えていたが、いけなくなったら、杉江先生が代打で教えにいっていたそうだ。 京大での試験問題も杉江先生が実は裏で採点していた。熊取谷さんには、可愛がってもらった。速書きと。時代を先取るする感覚が彼にはあったそうだ。 住之江先生の理論は、すばらしい。

しかし問題もあった。例えば配当だけを株式の投資価値として捉え 内部留保を無視していること、 投資家が株式を長期保有することを前提としていること、 更には成長株は配当が無限大となるパラドックスもあることなどである。 (長期投資を前提にしている) (成長株のパラドックス) 利益そのものが価値であるという収益価値説もあった。

JB Williums 1938年  

株価の理論を最初に打ち立てたWilliumsのThe Theory of Investment Value (1938)

・ウイリアムスと同時代のベンジャミン グレアムはウイリアムスよりも現実的・実践的な株式投資の考え方を提起した。 彼は証券会社で成功しそれで得た資金で資産運用会社を立ち上げ 配当+内部留保>>>収益の方に広げているのが新しい!! 1927年からはコロンビア大学夜間部で証券分析を講義しそこで話した内容を中心に弟子のデービッド・ドットとの共著「証券分析」 出版。運用会社をつくった。 1934年 コロンビア大学 優秀であったのが、残れといわれたが、一度、証券会社行って来い、お客に儲けさせた。 講義録をドット共著にした1934年 大ヒット。その原本は同志社にはなかった。 一橋大に原本があったので、複写機のない時代なので国立で手書きで大事なところだけを写した。つらかった。一橋大のキャンパスには、「射撃をするなかれ」と看板があった。(一橋のキャンバスで学生が射撃で鳥や獣を撃っていた時代だ)

「証券分析」が忽ち評判を呼び証券アナリスト試験の教科書として長い間使われた。 グレアムの理論の特徴は株式の投資価値を配当だけでなく 内部留保を含めた利益全体としたことで、そこに後の株価収益率(PER)の概念を取り入れた。 また、後のPBR(株価資産率)のアイデアになり、会社の解散価値以下の株価の株式(これをグレアムは「葉巻の吸いさし」と呼んだ) を探すことを推奨した。 株価収益率のPERの概念を示したことがひとつの大きい功績。割安株投資のバイブル。 PBRの考えになる。 証券アナリスト協会ができるきっかけになった。 アナリスト全盛時代をつくってくるようになる。 1970年であっても、グレアムドット本は売られていた。アナリスト試験のバイブルといわれていた。

バフェットについて-

グレアムのコロンビア大学の弟子。 新聞の切り抜き。バフェット最近GEの株を売った。リーマンショック前にはGEを買っていたが、 業績を伸びない。ダメだ。 シンクロリファイナンス(Credit 会社)だけは買った。 1930-1940 大恐慌もう一回がくるとグレアムはいったが、バフェットは聞かずに書いまくった。 1969年パートナーシップを解散。バークシャを買った。いまでも売買繰り返している。 バフェットの哲学。長期。そのときの波を無視。 会社の価値を貫く。 FCFの大きさで見ていく。 やや科学的になった。

–インデックスファンドの登場とアナリスト無用論–

米国は経済学者が株に興味を持つし、実証が好き。経済学者が株をどうみたかが面白かった。 アダムスミス以来の新古典派。 合理的自己的。 合理的な決定。 多数の人の参加。 完全競争。 情報の提供が早く拡散されている。情報格差がない。 効率的市場説。efficient market Samiuson, ユージンファーマ(シカゴ大学) 投資価値というものを巡るランダムな現象としてあらわれる。 確率現象としてみる。メモリーがない。株価には記憶装置がない。 9%のパフォーマンスになる、さるでもアナリストでも。 市場平均がすべてだよ。マコービッツモデルもとんでもない。 SP500インデックスで十分だ。伝統的な経済学の捉え方。 1970年から。。。

木村さんが中心になって、アナリスト協会 アナリスト試験 CFAが落ち目だった。

-ランダムウォーク論の登場-

ところが経済成長が続き成長株が続々と生まれるとウイリアムスやグレアムのような方法で将来の株式価値を計算すると過大になったり、不確実になってしまう。 計算上の価値は上昇しても毎日の株価は変動するため、平均株価とアナリストの予測とが乖離し市場平均に勝てなくなった。 それならばアナリストが銘柄選定するファンドよりも平均株価採用銘柄を買った方が有利である。 かくしていわゆるインデックスファンドが横行するようになった。

これで証券アナリストは用なしである。 しかし日本ではその頃から証券アナリスト制度が発足した。 CME シカゴ商品市場1982年SP500の先物上場。画期的なこと。20世紀最高の商品といわれた。

ヘッジもできる。インデックス投資にもなる。インデックスファンドのきっかけとなった。

一方、日本は、堂島の米価を試験上場していたが、本上場まで米先物をしたかったが、妨害される。

農林水産省が認めない。 米農家をあつめたJAは先物は投機だと反対。

農林族がまったをかけた。

シカゴのCMEについても、過去、玉ねぎの上場をとめたことがある。 CBOT(シカゴボードオブトレード)ができてCMEにライバルが登場。革新的なCBOTにCMEは対抗できなかった。つまり、 CMEはトライアンドエラーで迷走していた。1940年代に玉ねぎ上場をCMEが上場。そのとき、少数商品トレーダーが玉ねぎを買いまくってしまい暴騰。 暴騰後に、農家が儲かるからと参入。だが、実際は暴落しして、実業の農家がダブルで損をしてしまう。連邦議会に農家が先物はひどいと提訴。 これは、先物自体が悪いのではなくて、監視の問題である。

CMEのシステムがまだダメだ。市場管理をするようになった。CMEのメラメドさん、CMEの中興の祖といわれる面白いアイデアマンだ。

新しい商品1972年 ニクソンショックのあとに、固定相場から変動相場に変わる時期。為替を先物で、というアイデアを考え出した。メラメドさんが、 ミルトン フリードマン (シカゴ学派 マネタリズム)に相談。フリードマンは「為替の先物?? それはgreat ideaだ!」とメラメドにいったそうだ。 為替の市場先物は世界にない画期的なことだったからだ。でも、相談料としてフリードマンさんはメラメドさんに「相談料金5000ドルくれ、俺は資本主義者だからな!」といった逸話がある。これが、 10年後のSP500先物上場につながった。 いま、CBOTはCMEの傘下となっている。

フリードマン(1912-2006)

H26に安部総理と面談するメラメドCME名誉会長

—インデックスファンド時代—

セイラー(ノーベル経済学今年)  

ランダムウォーク(証券辞典 酔歩の理論)   

情報画一的にながされる。同じような行動にでる。  そもそもランダムならば、売買が成立するはずがない。  人間というものは、合理的じゃないからだ、という仮説。  おかしな決定をする。心理学の先生が考えた。

ダニエル カーニマン(1934年-)。

エイモス トベルスキー(1937-1996) (両者ともイスラエル)。

プロスペクト理論を1979年発表。

人間は合理的ではない。行動経済学の草分だ。

ギャンブルを研究。ギャンブルというものは合理的な人間はそもそもやらない。合理的ならやめる局面で、なお、すべての有り金をつっこんでしまう。これは経済学では説明できない。

セイラー(1945-) 米国の経済学者。今年のノーベル賞受賞

2002年にカーネマンはノーベル賞を受賞。

今年のノーベル賞はリチャード セイラー。

彼は前述のふたりと仲がよかった。二人は心理学者。セイラーは経済学者。1979年三人であって仲良くなった。セイラーは経済学者であったが心理学がわからない。逆に二人は経済学を知らない。お互いに教えあった。 三人が仲良く研究を続けた。

杉江先生の後悔は行動経済学をもう少し勉強すればよかった、というものだ。

ダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman、1934年3月5日 – )は、経済学と認知科学を統合した行動ファイナンス理論及びプロスペクト理論で有名なアメリカ合衆国(ユダヤ人)の心理学者、行動経済学者。

Amos Nathan Tversky cognitive and mathematical psychologist

セイラーは、むしろ政策論、401Kの年金をいかにして増やすかに興味があったようだ。 納税者を増やすための論文。キャメロン首相に納税率を高める仕事を手伝った。 社会行動や社会政策に関心があった。

 

–投機と商品先物に関心が移る—

「投機と先物取引の理論」で杉江先生はドクターの学位をとる。

商品については住之江先生は興味なかった。 杉江先生は一服したので、投資と投機はどうなのか、を考えたくなった。投機は悪ではないということを示したかった。

・長い間株式市場を中心に研究を続けるうちに特に投機に関心を寄せるようになった。

1970年だったか商品先物業界トップ企業のオーナーからマレーシアのクアラルンプールでの国際セミナーで 日本代表としてスピーチするよう依頼があり、 それが杉江先生の商品先物業界との出会いの始まりになった。 当時の商品先物取引員会社1950年~1960年代の証券会社とよく似ていて経営は前近代的だが、 営業マンは積極的に顧客を獲得する状態で、経営アドバイスを頼まれた。 商品の場合は、期日がある。清算する。 商品業界は勉強しない。それで先生は「なっとらん!」「勉強しない!」と怒ってばかりいたそうだ。商品先物業界のレベルはかなりまずかった。

・学術研究の対象としての投機については江戸時代初期から始まった。

コメの先物取引のシステムが明治以降は 国債や株式にも適用されて先物取引を行っていたことを中心に研究し「投機と先物取引の理論」と言う著作に集大成した。

また、その間各地の商品先物取引所の新規上場商品策定にも参画した。 1730年徳川吉宗の時代に大阪堂島に帳合米取引が公認される。  17世紀後半から米の先物は事実上あった。 幕府のスタンスはだが絶対禁止であった。ずっと禁止令が出ていたが、効果はなく、黙認されていた。 それを仕切っていたのが淀屋(米問屋)だった。淀屋は経済界のドンだった。

幕府の見解は以下の通り。

1.存在しないものを売買することが理解できない。倫理的にいけない。

2.先物は値段がかならず上がってしまう。米が上がったら、庶民が困るだろう。

だから先物はダメだ。

でも、米の生産量は技術革新もあり上がっていった。

新田開発もあった。

一方、飢饉も多かった。

結果として、米価は乱高下。

幕府や大名が米の値段が下がると税金が米なので、生活に困ってしまう。

そこで、大名の生活を維持するために、米価を上げたいと日和った。

それで、幕府は先物を認めた。先物を認めたら、米価が絶対に上がると幕府は思っていたのだ。

アホである。幕府はまったくの無知であった。 相場を上げたいために、先物を導入したのだから。

無知の政策。めちゃくちゃ。経済がわかっていないから、うまくいかなかった。

明治維新でストップしたが、近代的にして米取引所をつくた。 東京株式取引所ができた。明治11年。ロンドンにもニューヨークにもある。 株式がない。株式会社がなかったからだ。でも、国債はその頃もあった。 Stock Exchangeだが、国債先物市場だった。 明治15年から株式会社上場。これらも先物だった。 第二次世界大戦のS17-18年が日本の市場は閉鎖された。

理由は、株価は真実を語るので、どんどん株価が下がるから。日本が負けていることは、株価を見れば一目瞭然となるから、当局は閉鎖するしかなかった。

昭和24年から証券取引再開。だが、このときはGHQが米国の証券制度を決めた。

株式先物はやらないことを決めた。

だが、日本の証券の歴史は先物の歴史だった。投機は合理的な経済行動でもある。

—杉江先生、国債の先物取引市場創設へ貢献する—

・1965年から始まった国債発行により大手都銀を中心にその大部分が買い取られたが価格変動リスクを吸収するには先物市場が欠かせない。 ところが旧大蔵省は先物取引を嫌うDNAを持っていて小生を含む学者による研究会を通じて創設を求めても乗ってこない。 その頃、前述の拙著1984年が同省幹部(課長 課長補佐)の間で相当読まれたらしく、 折からアメリカ側からの圧力もあって国債の先物市場創設が実現した。 小生の研究も少しはそれに貢献したと自負している。

S40不況。初めて日本は赤字国債を発行。

1975年から国債発行高増える。日本は低成長になってしまった。国債は大手銀行が大量に買っていた。というよりも、「買わされて」いた。

銀行にとって、国債の値下がりリスクは大きかった。

そのヘッジ手段がない。銀行のALMができない。シカゴのCBOTが「日本の国債を先物を上場する」といいだした。日本に先物市場がないため、このままだと米国に日本国債の主導権が渡ってしまう。 そうなって、初めて、日本の当局は動いた。シカゴがやるならば、大丈夫そうだから、日本もやるかという話に急になってしまう。

先生は国家から勲章をいただいたが、この日本国債先物創設に尽力したことが評価されたとのこと。叙勲5年前。理由は、具体的に文科省が同志社大学にチェックをする形になった。

杉江先生の功績は日本で投機と考えれていた国債先物市場を設立したという功績である。

-投機は悪だ 当局の考え-

S53 1978年 シカゴ大学に夏から客員研究員でいった。 結果としては冬が寒すぎた。寒すぎてすめない。  証券価格研究センターというものがシカゴ大学に設置されていた。

学部長はジェームス・ローリー。 割り当てで二時間コンピューターを使わせてもらった。そのころコンピュータを使う時間は貴重であった。割当制であった。

ジェームズに「日本の官僚や行政は投機を嫌う。 国債の先物取引が日本ではできない」と話した。ジェームスはものすごく興奮して怒っていた。 「投機は合理的な経済行動だ!!!」と。

日本の官僚はオプションの売買の方が先物よりも日本の行政の理解は高かった。先物は実態がない、投機は悪であるという考えは日本の当局には根強い。

—いま(2017年10月時点)の株式市場について—  

国債市場ゆがんでいる。日銀が買いすぎてる。おかしくなった。

GPIFによって株式市場もゆがんでいる。かたよって買いすぎている。 フリーな競争市場ではない。 産業構造が随分かわってきた。 銘柄に対する収益ではなく、株を先物買みたいにかっている。

ちょっとこわい。 米国も上値を追う展開。 流動性、米国が上がっている。経済の状況がよい。 トランプ政権の政策がわからないのに買う。

杉江雅彦先生(左)筆者(右)のツーショット

お誕生日会は東京在住の杉江ゼミOBの方々8人と一緒に以下の店でお祝いをしました。

18時半から20時半 懇親会+杉江先生のお誕生日を祝う会を開催。 松尾さんが幹事。 会場 地鶏と鮮魚 よかたい  中央区晴海1-8-16 晴海トリトン 3階

杉江先生の誕生日会の様子

(おわり) 

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