子育てコラム #20 公立中学から難関大学へ番外編 「天国か 地獄か」
子育てコラム第20回 教育の目的とは? たまたまの区立中学から難関大学であったこと
男児四人の父親です。教育コラムとして子育てに関する感想を書いてまいりました。子供が生まれた時、親として「生きていてくれるだけで良い」と思いました。何かあれば、いつも、その考えに立ち返るようにしております。
それでも親の欲とは限度がないもの。ちょっとでも良い人生を子供に送ってもらいたいと思うのは親心です。
注意したいことは、子育ては親が一生懸命になったからといってよい子育てになるとは限らないこと。
結局は子供の持つ生まれながらの特性や性格が大きな要素を占めるからです。こうしたら高い学力がつく、こうしたら思いやりが身に付くなどという方法論はないと思います。全て出たとこ勝負のリアルタイムの偶然の産物が子育てだと思います。
うちは、たまたま長男が国立大学の医学部(北海道大学)、次男が東京大学の文3に入学したので、それも区立中学で小学校の時は全く勉強させていませんでした。妻も私もよく秘訣を聞かれるのですが、思い当たることがないのです。たまたまの区立中学からの世間で言うところの難関大学への進学でした。
親として子供をどう育てるべきなのかは百人百様です。そうはいっても、私と妻も子育て論に大きな差がありますし、男親として、子供にはこうあって欲しいと思うところはあります。今回は、男親としての思いを書いてみました。ですが、これは私の独断にすぎません。参考にはならないと思います。
子育ての目標は かっこよい男を育てる
私の子育ての目標は、子がかっこよい生き方をするかっこよい男になること。
そのためには、タフでなければならないですね。まずは、
-
挫折から学ぶ人になって欲しい (事あるごとに小さな挫折を与える ー 高校受験、大学受験)
-
意義を持って生きる人になる (事あるごとに社会的な意義を考えさせる、いじめ、片親、登校拒否、学級崩壊)
この2つを男親としてはいつも意識しています。
人はパンのみに生きるものに非ず
と言いますが、パンに当たるところがお金です。お金は最低限あれば事足りる。ところがそれだけでは「生きた」ことにはなりません。私はお金があっても幸せにはなれない人をたくさんみてきました。
例えば、いくら金持ちでも、子供にノーベル賞を取らせることはできません。お金を払って何かを解決しようとすれば、子供は親のその態度や手段を選ばない考えに正直、呆れて軽蔑してしまうでしょう。お金があってもオリンピックで金メダルは取れません。お金があっても相対性理論を身に着けることはできません。お金があっても本当に欲しいものは買えません。
一方で、生活に窮するようなお金のなさであれば問題ですが、普通に暮らせるぐらいのお金があるのであれば、お金がないことは問題になりません。意義あることをしようとすれば人が資金を貸してくれるからです。それは意義があることには金が集まるからです。株式会社とはそういう意義あることをなす場所です。
野心がある株式会社にはお金が集まるのです。困難なことであればあるほどお金は集まります。自分のお金は不要です。人がくれるのですから。貰うものは貰えばよいのです。意義あることに使うならば。意義はあるが困難を伴う仕事を目指す大人になってくれれば、もう、仲間ができて有意義な人生を送ってくれるし、そうなればお金の心配も多分ないのです。社会よし。仲間よし。自分よしで。だから、私にとっての子育ては、困難をあえて選ぶ男を育てるのが目標となりました。
私の究極の子育ての目標は次の質問にYESと答える子供にすることです
その質問とは
天国と地獄があります。あなたは(困難が予想される)地獄へ行きたいですか?
グッと考えた後に、YESです。俺は困難が待ち構える地獄をあえて選びますー そんな男を育てるのが私の夢なのです。
天国に幸せはあるのか
もし天国と地獄があるとしましょう。そうならば自分だけが天国に行きたいと思うでしょうか。誰かが一人でも地獄にいて困っていると知ってしまったら、放っておけないと考え、今から俺は地獄に行くよ、と選択する男。そんな男を育てたい。それが私の目標だったのです。
地獄で苦しむ人たち。地獄とはあの世ですか。この世にだって地獄はある。それをないものとして、自分だけが天国にいって、はい、それであなたは幸せなのかと。地獄を半歩でも改善するために命を投げ出すことも生き方の一つではないのかと。そう思っておりました。
公立保育園から全ては始まる
四人の息子たちを育てる日々です。感じたことをこのコラムに書いてきました。「区立中学から難関大学へ」というコラムは、私がこれまで書いてきたコラムの中でもっとも読まれたコラムでした。
地方で当たり前の公立保育園から公立小学校。そして地域の公立中学。地元でチャリ通学できる公立高校。そして大学は親に負担をかけないようにと国公立大学へ。これが地方のスタンダードな姿。ところが東京は中学受験という聞きなれないものが存在するある意味変わった場所でした。
東京に1990年に出てきた私は、1995年に結婚。1997年長男が誕生。1999年次男誕生。2003年と2005年に三男と四男が誕生しました。
妻との六人家族。我が子の全員が同じ保育園、同じ小学校、同じ中学校に行きました。
東京には確かに歴史ある名門私立大学もあれば名門の中高一貫学校もあります。我が子に特別な教育を受けさせたいというのは親の本音だと思います。ですが、私たちは、あえて、習い事も、塾も、中学受験もさせないで子育てをしました。
地元江戸川区の保育園の同級生たちと同じ小学校、同じ中学校に行き、運動部で汗を流し、都大会を目指し、頑張りました。
四人の子供はそれぞれ野球部やサッカー部やバレーボール部に入りましたが、息子たちのチームメイトの多くが保育園の同級生だったのです。
保育園から一緒ですから、親同士もずっと長い付き合いです。
保育園と小学校。小学校と中学校の先生同士の連携も抜群です。
息子たちは、日々、色々悩んでいます。受験に失敗した時、試合に負けた時、彼女に振られた時、そんな辛い時には、荒川の土手で友達が悩みを聞いてくれます。多くは保育園の時からの同級生です。いろんな境遇の友達がいて、いろんな考えに触れて自然な形で育つ。
子供達にとって保育園とは五年間の集団生活の原体験となる大切な時間です。それ以上に、保育園とは、100まで続く長い息子達の人生を一緒に生きてくれる大切な友達ができる初めての場所です。
保育園 教えない素晴らしさ
私が保育園に感謝しているのは、五年の間、文字や記号などの「勉強」を教えないことです。息子たちが行った保育園は、りす組(1才)、うさぎ組(2才)、パンダ組(3才)、キリン組(年中)、ライオン組(年長)と学年が別れていました。
驚くほどの成長を見せるのが保育園時代。勉強は不要です。
ただ、遊ばせる。年に一回、劇などがありますが、それは親のためのようなもの。子供のためになっているかは疑問です。
喧嘩させる。親同士がみていると子供たちに喧嘩をさせません。子供が喧嘩する前に親が止めてしまうからです。
しかし保育園では喧嘩もさせます。我が子が怪我することもあります。
怪我をさせられたら、喜びましょう。よい経験をさせてくれたと。今時、怪我させるのも難しい世の中ですから。
喧嘩することで人の気持ちがわかるようになります。
勉強させず遊ばせることで子供が自然に育ちます。
文字を知らないで小学校に行くととてもよいことが待っています。それは、授業がドキドキワクワクするのです。初めて文字を教えてくれる先生のことを尊敬してしまうのです。私の基本方針は、先生は絶対的存在。担任の先生は全て100%よい教師であると心から信じて尊敬するのが親の仕事です。
先生を親が上から目線で評価するのは失礼です。子供がドキドキ緊張するのを見ると楽しいものです。わかる人と聞かれて、保育園組は手をあげることができません。小さい時から親は子供に何かを教えたがりますが、私は百害あって一利なしと考えています。あくまで個人的な意見ですが、バカバカしいと思えてしまうのですよ。3つや4つの子供に何かを教えるだなんて。税金で学校に行かせてもらって、そこで教えてもらえるのです。先生を信頼することで子供はまっすぐに育ちます。親が他人を評価すれば、子供も他人を評価する子供になります。授業で、これ知っている、もう習ったと発言するようなことは、子供にとっては非常に悪いことになります。何故ならば、他人よりも自分はよく知っていると勘違いするからです。そういう先走る親の子供は高校生あたりで底辺に近い学力に沈むリスクがあります。教えすぎると子供の好奇心はゼロになるからです。そうならないことを願いますが、くれぐれも小さい時に教えないようにするのが無難です。
障害者と一緒に遊ぶ それが保育園
保育園は健常者も障害者も同じクラスです。車椅子の園児もいます。その中で一緒に遊ぶ。誰も置いてきぼりにしないのが保育園児です。
変な大人よりも正義感は強いのが園児です。曲がった事は嫌いなのが園児です。忙しいお母さんを「お母さん、頑張っているね」と肯定するのが園児です。
子供の特性を殺さない勇気
四男がりす組に入ったとき、ある園児がある園児が遊んでいたおもちゃを取り上げてしまうのを私は目撃しました。するとおもちゃを取られた女の子が泣きました。それを横で見ていた四男は、おもちゃをとった男の子を突き飛ばしてしまいます。それを見ていた私は、「この子は正義の味方なんだな」と頼もしく思ったのです。一才の子供にも社会性というものは宿ります。四男の示したこの正義感を潰さないようにしました。つまり、大人と関わらせない。教えない。習わせない。
学力よりも 体力
保育園の園児たちは、遊ぶのが大好きです。
そこで、小学生になったら、サッカーや野球を始めます。
多くは無料で教えてくれる野球チーム、サッカーチームに入ります。うちの場合ですと、江戸川区清新町の清新ハンターズ(野球)、清新FCでした。監督コーチはお父さんとかつてお父さんであったスポーツ好きな指導者たちです。
土曜日や日曜日は試合があります。そこで試合会場は、自分たちの通う小学校や中学校です。
小学校の六年生にもなれば、都大会を目指すようになります。辛い練習にも耐えるようになります。
何故ならば、試合で打つホームラン、勝利の味は、勉強では得られないからです。
レギュラーになりたいから努力する。打ちたいから努力する。
素振りを一日200回も300回もやり、手にいっぱい血豆ができるのもこの頃です。
それでもチャンスで打てず、泣いてベンチに帰ってくる。そんな時期です。
怪我や病気で試合に出れない時も、チームをベンチから応援する。そんなことができるようになる時期です。
小学校で 一人旅ができるようになる
私は家族旅行で海辺で砂浜をぱちゃぱちゃという遊び方はしません。
そういう家族旅行はしません。
海や川に行くなら、周りに誰もいないところ。そして、漁師さんがいない場所を選びます。
砂浜は多様性がなく海としては死んでいます。
岩場は多様な生き物が生息しています。泳ぎは潜ってナンボです。
小4ぐらいになると、泳げなくても泳げる人の背中にしがみつき、溺れないようにします。一緒に潜り、サザエやたこをとります。
ウニをたくさんとり、その場でウニ丼を作ります。こんなに美味しいものを初めて食べたという経験をさせます。
飛行機に一人で乗せて旅行をさせたこともあります。小学生なら大人と会話ができる。一人旅が子供を成長させます。
中学校で 友達の深刻な状況に涙する
公立の小学校や中学校はとてもよい子育ての場になります。海に例えるならば高級レジャーの綺麗な浜辺(消費地)は中高一貫の名門。誰もいない荒波の岩場が公立中学です。
公立中学には、できれば、いじめっ子や多動症の子供、そしてガキ大将などがいれば、私は嬉しいのです。この公立だけが持つ多様性はお金を出しても買えない貴重なものです。
指導力のない先生がいれば、授業が成り立たないことがありますが、そんな先生がいる方がむしろよい!と考えて子育てに臨みます。子供たちと先生と親が団結するよい機会を与えてくれるからです。そして、そうして築いた人間関係は一生続き、子供たちの宝物になるからです。
何か問題があって、それに対して、「俺は関係がない」という態度をとっているうちは、男として大したタマにはならないので、小市民的な生き方を続けさせればよい。これはもしかしたら俺の問題かもしれないと思ってくれるように、親も裏で汗をかくことになります。
さて、中学校では、両親の離婚や家族の死別に遭遇する同級生たちがいます。
息子たちは、他者に舞い降りた不幸を自分のこととして受け止めることができる年頃になります。
登校拒否の同級生。何があったのでしょうか。深く考えて、勇気を持って行動することができる年頃です。
悪ふざけもします。警察などの厄介になることもようやくできる年頃です。
世の中の不平等に憤慨するのもこの頃です。
勉強を教え合うこともできるようになります。
公立中学で、息子たちは人間を磨きました。
「あなたは勉強していればよいのよ」という家庭の子供ではダメなんです。
辛い思いをしている友達の支えになることを選ぶ子供でなければ。
どうしたらあの友達の涙を止められるのか。社会の痛みをどう和らげられるのか。自分は本当に無力なのか。なぜあの子は高校を断念しなければならなかったのか。なぜあの子の父親は死んでしまわなければならかったのか。
その理不尽さに憤り、涙し、おかしいものはおかしいと言える大人になっていくのでしょう。
自分は本当に一人ぼっちなのか。その時、彼らの18年間の人間関係でポップアップしてくるのが保育園の五年間から続く公立中学までの友達です。
保育園から繋がる公立学校の人間関係が彼らを孤独から救うのでしょう。
中学と高校時代 読書で偉人に遭遇する
ところが、勉強をしていると、途中でだんだんわかってきます。
勉強の過程で、人類の過去の叡智が詰まった名作に出会います。読書に急に目覚めるのもこの頃です。
読書を通していろんな考えに接していく。素晴らしい人に出会う。尊敬する人ができる。その人の生き方に感銘を受ける。
そうなると、社会に寄り添う仕事が輝いて見える。偉人に出会うことで、その職業に憧れたりするからです。
野生のオオワシを治療できるのは北大獣医学部かあと長男が知ったのは中学生の頃でした。それから大自然に憧れが北大への進学に繋がったのです。野生の動物を保護する獣医さんの本に出会ったのがきっかけでした。
次男は最終的には文系に進みましたが、都立日比谷高校は文理分けがない高校です。中学校の時に、NASAに務めるOさんの本を見つけて何度も読んでいました。宇宙への憧れから、ハワイの天文台への研修がある日比谷高校に入ってハワイ天文台に行くことが目標となりました。Oさんに出会わなかったら、次男は日比谷を目指さなかったのです。運よく、スバル天文台に行くことができました。総勢12人の同級生と行きましたが、入念な準備期間もあり英語での授業でいく前までに学校が鍛えてくれたのです。海外の大学の先生とのライブ授業なので、英語の講義や英語での質疑応答のやり方を先生たちが鍛えてくれるのです。次男は最終的には東大の文3に行きましたが、文理の分けがない東大を選んだのは、心の何処かに宇宙研究への未練があるからだと私は思っているのですが。28ssh_news_k
偉人に出会うことができると、将来が開ける。
そうなると、単に条件のよい仕事は魅力がなく思える。そんな年頃です。
自分は人のために何ができるのだろうか。そう思い悩むのが高校時代です。
そうか。勉強っていうのは自分のためにするものだと思っていたけれども、そうじゃないんだ。勉強っていうものは自分のこれからお世話になる社会のためにするものなのだ。切実な社会問題もきっと半歩でも動かせる。その気概さえあれば。そう思えるようになります。
若さとは勢い。生命の強さです。かっこよい男に憧れる年頃です。
子には苦労を! 浪人 大賛成
宅浪というものがあります。やるのは子供。受験をするのは当人。計画もその結果も全て本人のものです。誰のものでもない。自分の子供の真の強さを信じましょう。任せるのです。
もし、希望通りの大学に行けなかったとしたら、浪人も悪いものではないでしょう。100才まで続く人生。どうして1年を急ぐ必要がありますか。
若い時の苦労は買ってでもしなさい!ですね。
宅浪で効率が悪いと言う人がいますが、わからないなら何度も考えることで頭はよくなります。
ああ、俺って頭悪いんだなと思うはずです。わからないことばかりだと。でも、わからなくても、やるしかないよね。自分で決めた道ならば。わからなくてもわかるまでやるしかない。
それでもわからない時は?
今日わからないかもしれないが、明日もう一度考えればわかるかもしれません。
それでもわからなければ明後日わかるようになるかもしれません。
なんど考えても手に負えないならば母校の先生に会いに行き聞いてみるか、友達を頼りましょう。
何がわかっていないか 5回も考えたのであれば質問する資格だってあります。
指定校推薦は友に譲る 付属校はライバルに譲る
困難な道をあえて選ぶのがかっこよい男であるならば、当然、受験はします。
エスカレーターで受験がないところで伸び伸びと育てては、困難には直面しない。我が家の子供たちは付属校は受けません。早稲田、慶應は高校からの方が入りやすいのは確かです。でも、その「得」をやってしまっては、困難を避けた事になるのかもしれない。個人的な意見にすぎませんが、大学受験は滅多にない困難。それを避けるだなんて本当に勿体無いなと思うのです。大学受験を乗り越える経験は、いくらお金を出しても買えない貴重な経験。お金では買えないものをあえてパスしてしまうなんてもったいない。
指定校推薦はいけませんね。いまはなぜか多くの大学や高校が推薦入試を行なっていますが、推薦は楽な感じがしてしまいます。困難な選択とは思えないのです。頑張りたくても頑張れない仲間に推薦の枠は譲って欲しいですね。自分はあえて実力で一般入試で合格を目指すのが正しい男の生き方の一つかなと。
高校生へ 部活動で 三年の受験間際まで頑張ってほしい 燃え尽きてほしいなあ
燃え尽きてほしいですね!部活動に!
高校三年生の受験の間際まで、地元の仲間とともに都大会・関東大会を目指す。
保育園組は総じて体力があります。
たったの三年間の高校生活です。大学のために、高校生活を犠牲にすることはないのです。
受験勉強のためなどに部活を犠牲になんかするのは勿体無いでしょう。頭はいつだって鍛えられるのです。
今、不利だとか有利だとか、損だとか、得だとかという、下らない価値観、大人の視点で大学受験を評価する人が多いのでしょう。ただでさえ、学習進度の遅い都立高校で、しかも、受験の間際まで部活動で頑張れば、受験では不利になる、という考えです。
果たしてそうでしょうか。むしろ、有利です。子供は最後までやりきる。三男の場合なら、春高バレー予選は受験間際まであるでしょう。その仲間との熱い思い出を一生持ち続けて生きることがどれだけの価値を持つのでしょう。部活をやりきったという自信は三男の一生の宝物になるでしょう。不利を有利に変えるのが、真のリーダーの器です。その方が、かっこよい男ではないでしょうか。勉強だけしていればよい、などと下らないことを大人がいうから、子供がダメになる。家事も、弟の面倒も全てやってもらう。友達が困っていたら、全力で助ける。クラスメートの一人の落ちこぼれも自分が許せないのがかっこよい男ではないでしょうか。
不利をあえて選び、困難をあえて選び、あえてそのプロセスを楽しむ心意気を持つ。それが男としての実行力になっていくのではないでしょうか。ですから、不利、有利はそれほど単純なものではないのです。
清新一中のバレーボール部ではS先生の熱血指導のために3度の江戸川区のチャンピョンになりました。高校三年間で春高バレーを目指そうということです。今から、都立高ではバレー部に入ると言っています。バレーに青春をかけよう。大学はその後考えればよいのではないかと思うのです。
栄光に近道なし 栄冠に涙あり
公立魂は生徒よりも先生の方にむしろ強いものがあります。次男と三男を三年間指導していただいたS先生はこう三男に言葉を送りました。
栄光に近道なし
栄冠に涙あり
真夏の冷房のない体育館で一日3試合を二日続けてやる体力がなければ都大会は勝ち抜けないと厳しい練習をしていただきました。
どうしてそこまで休日出勤や朝練をしていただけるのでしょうか?とお聞きすると、
S先生は答えました。「だって教師ですから」と
「子育てと同じです。5時で終わる仕事じゃない。いつでも何時でも生徒のために頑張る。それが教師というものです」
今、中学校の部活動の負担の重さが社会問題になるような、やなわ世の中です。
何事も本気でやるなら盆正月は返上が普通だと思うのですが。
都立高校とは予備校が不要な学校です!
今の都立高校には予備校は不要です。夏期講習や勉強合宿をやってくれます。わからなければ友達に教えて貰えばよい。自分たちで全てできるんですよ。子供たちは。
高校になれば 子供は勝手にやります。大人は黙って手を出さないことです。
我が子は地域に支えられ、我が子の学費は国や地域が出している
普段は黙ってみる。それが親ですが、子供が生意気なことを言ったらガツンと言うのが大人の役割です。
国民の税金で学校に行かせてもらったら、勉強したことを社会に還元する義務があると私は子供にいいますね。
税金で学校に行ってくるくせに、真剣に勉強しないなら、真剣にやりたくてもできない同級生のことを考えるべきだし、真剣に学問と向き合わないならば、学校なんて行かなくてよい、やめてしまえといいますね。
平均点とって喜んでいた四男には、「平均とって喜ぶな。9割がノルマだ。義務教育は90点が義務だ。人生に平均なんて言葉はいらない。全部百点狙ったが、百点は取れなかった、というのが税金で学校にいくものの勤めだ」
そのぐらい締めてちょうどよいぐらいです。四男は、「こわーーーい」と一言。私はニヤリとします。
ガキが生意気ならガツンと説教をしてよい!
通勤時間の電車は働く大人のためのものです。子供が通学で大人のスペースを奪うことにはよい気持ちがしません。
学生の分際で電車に乗っては大人が迷惑。
大人はえらい。子供は半人前。半人前のうちは、公共サービスは受けて欲しくないのが本音です。
地域によい学校があればそこへ行けばよい。なければ最寄りの学校をよい学校にすればよい。いうのは簡単。やるのは至難の技ですが…
能動的に生きてほしいなあと思うのです。一回きりの人生を。
あれこれ書いてしまったけれども 生きてくれるだけでよし!
それでも最後に、親としてのベースの考えに立ち戻ります。
子供は生きていてくれるだけでよい!!!
色々書いたけど、死なないでくれ、生きろ!ってことです。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません