子育てコラム 第31回 「子育て」ではなく「信じて待つ」by yamamoto
わたしたちは江戸川区清新町の夫婦ですが、わたしたちの子育てもようやく終盤に差し掛かりました。
長男(大学院2年生)と次男(学部3年生)の就職先や進路が決まり、後は二人の都立高校生である三男(高3)と四男(高1)の大学進学と就職を残すだけとなりました。
子育てをしていて、嬉しいことは、無数にあります。そのひとつは心が善い方向に成長をしていく我が子を見届けることができることです。心の成長は大学生になると急です。多様性の重要さや寛容さがいかに大切かが実感できるようになる年ごろです。そうなるためにはやはり親が先回りしないこと、抜け駆けしないこと、信じて待つことが大事だと思うのです。
長男の結婚と就職
長男がすでに結婚し、新居を就職先のある千葉県に構えます。北大の医学部で知り合った素晴らしいパートナーに巡り合いました。二人とも民医連の病院で勤務する医者となります。長男は医学部に入ることが目的ではありませんでした。大学生になってからの方が受験期よりも勉強していました。善き医師になりたい一新でした。幸せな人生とは何かを考え抜いた6年間の学生生活でした。息子は善き医師の前に善き夫。善き人間になろうとしました。どれほど多忙であっても、人の話を聞くときは勉強中でもノートパソコンをしっかりと閉じるようになりました。
善き社会はどうしたら作れるのかという課題を考え抜いた。よい方法論はありません。結論もありません。大きな話をしても大きなことはできません。息子たちはこうした当たり前のことに気がつきます。
できることは何か。身近なパートナーを大切にすること、地域社会を支える人になること。そして長男の学生時代も後半年で終了します。彼ら夫婦が出した結論は1)医学の猛勉強すること、2)誠実な人間になること、3)地域社会のために働くことでした。病院の利益のためではなくて患者のこと、患者の家族のこと、患者を取り巻く環境を丸ごと背負う覚悟がなければよい医者ではないということに気が付いたようです。二人とも民医連に勤めることになり、お金とは縁遠くなるなあとわたしは寧ろ、嬉しくなりました。民医連への就職をもっとも喜んだのは元理事として民医連のサポートをしている名古屋の実家のわたしの両親、長男の祖父母でした。
長男の民医連の病院での最終面接の小論文の内容がここにあります。紹介させてください。
次男の司法試験予備試験の論述試験の合格
次男は大学3年生になり、司法試験の予備試験の論述試験に合格し、残る口述試験を2週間後に控えています。予備試験の口述試験に受かれば4年生の段階で司法試験を受けることができます。運よく合格した後ですが、卒業もして、司法修習生として法律家の卵としてのキャリアをスタートする運びです。次男は法律の勉強もしていますが、文学部の学生です。倫理学を専攻し、難解な哲学と格闘しています。お金がなくて裁判を起こすことができず、泣き寝入りしている多数の人がいることを知り、手弁当で地域住民の運動をサポートしたいのだとか。第一志望としては裁判官のようです。また、人間をつくる仕事である教育に大きな関心を持ちつつあります。
次男の心の成長は受験の失敗が契機になったのではないかと思います。お手本のような優等生で、学級委員、野球部のキャプテンと中学では内申書はオール5で都立日比谷高校でも成績はトップクラスでした。しかし、プレッシャーからかコンディショニングが悪く東大受験に失敗。一浪し、自分は頭がよくないと気が付いたわけですが、それが実によかった。 傲慢さがなくなり、人を思いやることもできるようになっていったのです。就職に不利な文学部を受験し1浪し東大の文3に入学。現在3年生です。
学問は使える
長男、次男に共通するのは大学の成績がよいということ。長男は北大医学部で学年で次点の成績であり次男も東大でも上位の成績です。学問を日常に使うためには圧倒的な理解がなければ使えないということを知っているからです。学問は「使う」ものです。しかし使うためには適用と応用ができないと使いこなせない。使いこなすには本質を理解しなければ使えない。ところが本質を理解したら成績がトップクラスにならざると得ないという具合です。
たとえば、数学。数学を勉強しても日常生活に使えないと思っている人も多いのです。数学を勉強して日常生活の問題を解決していくことはできるのです。
数学の話はどうでもよいのですが、大学や職業の話でさえも実はどうでもよいと思います。本当に大事なことは子供の心の在り方。心の成長です。
生きていりゃいいという気持ちで我が子を応援する
わたしが子育てでもっとも重要視したことは「子供は生きていればそれだけでよい」という心持でした。いま、家庭では高3の三男が大学受験ですが、彼は家事を毎日こなしています。家族全員分の洗濯物を洗い干して畳んでいる。その日課を見て、末っ子の4男は手伝おうとしない。長男は帰省しているときは三男の姿を見ると自然に自分もと、洗濯干しを手伝いをします。妻もわたしもいるときは三男が家事を始めたらお手伝いをします。ところが末っ子は何もしない。我が家では妻も私も何もしない末っ子をみても何もいわない。あえて何もいわないようにしている。他から言われてイヤイヤやらせることに何の価値もないからです。
意外かもしれませんが、わたしは我が子を叱ったことも注意したこともないです。少なくとも記憶にはありません。「よくないな」「悪いな」ということが生じても、事実を確認するだけに留めました。放任というわけではないですが、妻と事実を共有することはしましたが、それによって偉そうに子供に「こうするべきだ」ということはいわないようにしました。子供に考えさせ、失敗させ、自分で成長をさせるためです。
もうひとつ重視したことは、抜け駆けをしないことです。もちろん子供4人を差別しないことは大事です。抜け駆けとは、社会に対する抜け駆けです。たとえば中学受験は慎重に考えました。学習環境が悪いから我が子だけ環境のよいところへ入れるということが「抜け駆け」になりかねない。よい大学に行くためには高い塾と中高一貫校というのが相場のようですが、わたしたちは4人の子供は公立保育園であえて教育をしない保育園に入れ、保育園の同級生の親たちとの親交を温めてきました。小学校と中学校は4人とも公立に入れました。ストレートに保育園の同級生たちと同じ中学に進学。5年の保育園。6年の小学校。3年の中学校と14年の歳月をつかって人間関係を深めてきました。本来であれば地元の都立高校に徒歩圏でいく教育行政があるべきでしたが、それがなく、仕方なくそれぞれが高校を選ぶことになりました。もし、徒歩圏で地元に公立高校があり、中学全員がその高校にいけるような制度であれば、わが町はもっとよい町になっていたでしょう。
いまでも長男や次男は保育園の同級生たちと一緒にキャンプに行ったり、深夜の公園や中川の土手で悩みを互いに打ち明けたりしています。そういう子供同士の人間関係は思春期に差し掛かった中学のときに一気に深まります。
子育てのコツというほどのものではないですが、抜け駆けしないというのは、本当に大切なことです。つまり自分を形作る根っこの部分とは地域社会の一員であるということ。そしてクラスの一員ということ。ずっと同じメンバーで育ったクラスから我が子が親の意志で抜けることは根っこにある自己を喪失してしまうリスクがあります。自分がいなければクラスはどうなるのか。毎日の友達との遊びはどうなるのか。子供は自己を喪失してしまいますし、長時間の習い事や塾での学習で身につくものは生きていく上ではほとんど使い物にならない鶴亀算や記憶です。塾に行ってしまうと体力が備わりません。親が地域社会を支えている姿とその地域社会から断絶した遠い中学校での生活はせっかくの子供の社会性を失わせてしまう危険性があるでしょう。
わたしたち夫婦は、子供に習い事をさせませんでした。塾にも行かさなかった。中学受験も避けた。子供が自分から求めない限りは塾や習い事はさせませんでした。ですがわたしは父親です。父としてできることはやりました。それは学校の先生を全面的に応援することです。先生をいつもねぎらう。そして子供たちの同級生や友達に感謝すること。特に新人の先生やいじめっ子などは一層、親として大切にしました。これほど子供の成長に帰するイベントや経験はないからです。息子たちには勉強の話はしませんでしたし、宿題やったかどうかなどは聞きませんでした。しかし、こうは聞きました。「今日は誰かクラスで休んだ友達はいたか?」と。「その子は大丈夫なのか?」と。長男は学校を休んだ友達がいると、こっそり家まで訪ねていって、確認するようになりました。
うちの子供たちは、優等生というよりは、秘密基地をつくって進入禁止のところで火遊びをしたり、夜中にスケボーで近所迷惑な行為をしたりもする悪ガキたちでもあったのですが、地域とはそういうもので、子供が悪いことをするのは当たり前で、そういう悪いことをしないとむしろ、経験不足になってしまいます。優等生ばかりいるよい学校にいけば、人生の経験値はガタガタになります。ノーベル賞をとるような人は経験値が高いわけですからね。悪い環境という自然な状態は地域社会にだけしかないのです。遠くの世界の話は自分事にはなりにくい。友達のお父さんがリストラされちゃってという話は、子供の心に火を灯す。子供の成長とは心の成長であって、学業というのは、何か、誰か困っている人の役に立てるためのツールなのです。まずは心の成長。次にやりたいことがあって、その次にツール。いま、多くの親は自分の子供だけを特別扱いして、社会から抜け駆けしようとしている。最初に習い事をたんまりさせて、ツールを与えようとする。そういう余計なことがまかり通っている。それをやってしまったなら、子供の心がスポイルされてしまうのです。逆です。すべてが逆。
わたしの狙った通り、末っ子の同級生はかなりのガラの悪いものがそろっていて楽しみな展開。末っ子に「友達を大切にするんだぞ」というと末っ子は「あったりめーじゃん」という。ああ、父さんは俺の友達ならば信用するんだな、と思って、必要ならば、いろいろと親と相談するようになる。親だからといって、頭ごなしに「悪い子と付き合うな」では説得力がありません。人に迷惑をかけ、尖っていきていくのもよし。その道を経なければ、到達できない場所もかなり多く存在するからです。ともかく、心というやつは面白いもので、成長するものですよ。面白いように、よく成長する。悪く成長することがない。それが人間の心というものです。不思議と放っておけばよく成長する。信じれば育つ。待てばよいだけ。余計な心配をしないで、先回りをしないこと。勉強とか受験とか大した問題ではない。要するに、子供は生きていればそれだけで儲けもの。それは企業でも経営でも同じ。社員や同僚は生きていてくれるならそれでいい。勝手に育っていく。そういうものです。しかも人格さえしっかりすれば、心はもはや、よい方向にしか育たない。よくなる一方です。
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