「子は生きていてくれるだけでいい」を超えて

コラム ===「子は生きていてくれるだけでいいよー」を超えて===

先週のコラムで「オール5が望ましい」というコメントを読んだ読者から、「厳しすぎてびっくりしてしまった」とのフィードバックをいただきました。

http://okuchika.jugem.jp/?cid=6

なかなか短いコラムの中では真意は正確には伝わらないものです。

子供に義務教育の内容を身体で会得するレベルは試験では満点なのだから、満点が望ましい。

そして、満点ならば、内申書は5段階で5になるはず。

義務教育の内容ぐらいはしっかり理解することがこれからの高校生活を送る上で「望ましい」。

望ましいと「伝える」。

そして、満点ではなくて、ミスをする人間だから9割の得点をとることが望ましい、という形で相当なレベルダウンをした上で、 「テストでは90点以上が望ましいぞ」と伝える。

そして、「伝える」ことは強要したり命令したりすることではありません。

あくまで、自主的な判断を下すのは子供自身です。

低いハードルで「とにかく生きてておくれよ」という愛情ベースがあって、 もし、やる気があるならば、こういう世界もあるよというプラスアルファの提示を見せる。

この幅広い、低いハードルと高いハードルの二つを同時に「見せる」ことに苦心することが子育てではないでしょうか。

褒めて育てるか、叱って育てるかの愚かしい二元論に陥らないようにわたしは注意しています。

わたしは叱りません。叱る代わりに高いハードルがあることを子供に認識させるようにしているのです。

見ろよ、日本代表のサッカー選手、後半ロスタイムで全力疾走する姿を。

見ろよ、五輪の体操選手のウルトラDの技とその着地を。

見ろよ、あのピアニストの超絶技法を。

同じ人間として、長期にわたる継続的な努力だけが到達できる世界をたくさん子供に「見せる」こと。
そして、「やる気さえあれば、お前もあの世界に到達することは可能である」と伝えることを子育ての主軸をしてきたのです。

そうしなければ、子供は、平均点をとれば、ああ、平均だったと安心してしまい、それ以上の努力はしなくなることがあるからです。

平均ではなくて理想を求めることで人間は進化していくのではないか?

子供にはただ、理想を「伝える」。

ですから、「子供は生きててくれるだけよい」と「子供はオール5が望ましい」の二つの主張は同時に成り立ちます。

愛情をベースにした、ダントツに低いハードルで子供に絶対的な安心を与えることも大事でしょう。

一方で、世の中の役に立つ人材を育成するためには、子供には継続的な努力の価値を伝えることもすべきだと思うのです。

ダントツに低いハードルとダントツに高いハードルの二つを同時に用意すること 

「子どもは生きていれくれればそれでいい」 そう、わたしの妹が正月の集まりで妻に言ったそうだ。 「本当にそうだね」と親族みんなが頷いた。

翌日の新年の集まりで義父母とお会いしたとき、妻がみんなに妹の言葉を披露したときのことだった。

「子どもは生きていてくれればそれでいい」 この低いハードルが親の愛の本質なのかもしれない。

溢れる愛情の裏返しなのかもしれない。 親は、ただ、環境を整え、子どもを暖かく見守るだけでよい。 ハードルは低く。じっと見守る。

ハードルが低ければ、親だって精神的に楽になるはず。

親がゆったりしていれば、子どもは安心するはず。 知らないうちに、子どもは大きくなる。

そして、親に言われなくても、いつか、何かに熱中することになる。 子どもの自我が目覚めるまで、そっとしておきたいものだ。

妻は、これを究極の放置プレーといっている。

高いハードルについて

ただし、わたしは父親である。

子どもには厳しい現実を伝える。

世の中の状況を伝える。

伝えることは事実であり、決して、子どもの言動の否定ではない。

たとえば、期末テスト。 義務教育の内容については、9割をテストでとらなければ身についたことにならない。 これは事実だ。

テストについては、平均点という考え方を否定する。

絶対的な水準として9割をとることが理想であることを伝える。

とれ、とは言わない。9割を目指すという考えがあるんだぞ、と子供が想像していない世界を想像させるのだ。

そして、中学生になったら、一年生の冬休みに学習塾に行く権利を与える。それを夏休みに前もって言っておく。

「冬休みにもう一度、聞くから、YESかNOで返事をそれまでに考えておけ」というのだ。

塾へ行く権利について、そして、それは自分の将来や行きたい高校について、本人に少しでも熟考させるためだ。

都立日比谷高校などの入試は独自作成の問題であり、そういう都立高校がいくつかあると伝える。 それらに行くつもりならば、独自問題入試を突破するための学力と演習時間が必要だと伝える。

どの道を選んでもよいが、独自作成の高校を目指すならば、準備時間が必要だということを伝える。

そのひとつの目安が中一の三学期からの準備ということは、長男、次男の受験を経験して、受験のタイムリミットがなんとなくわかっているからだ。

我が家は小学校のときに勉強を全くさせない。

あえて、ゼロ時間。中学受験はしない。

英語ではbもdも区別ができないまま夏休みを終える。

だが、悪いテストの点を意図的にとらせるのが実は故意の作戦である。

一学期の期末テストでは我が家の子どもたちはよい点はとれない。

中一の一学期は、 学校と部活に馴染むことを優先すべきだからだ。

要するに、勉強よりも、友達作り、体力つくり。まず、友達とたくさん遊ぶことだ。

もし、独自作成ではない高校に行きたいといえば、それでよい。塾に行かずに高校受験する生徒もいる。そして、都立高校には補講を多数準備してくれるところも多い。塾に行きたいと子が願えば、行かせる。願わないならば、行かせない。

小さいときに、音楽をしなければ絶対音感はつかない。

それと同じで、入るのが難しいところを目指すなら、少し早めに準備が必要になるのは当たり前のことだ。

入りたい人の2分の1しか入れないならば、競争に勝たなければならない。それが理屈だ。

その現実を中学3年生になってから伝えるのではなくて、 中一の夏に話すのはフェアだと思う。

でも、あくまでも、それは子どもの意思に任せている。

やる気のないことをやらせても、親も子もつまらない。

低いハードルと、厳しい現実の選択肢と。 厳しい道も選択肢として示すが、それを避けてもよい。

逃げ道も用意する。

たとえば、三男は、小学校のとき、野球やサッカーやバスケに興味を示さなかった。

それはそれでやりたくないものを強要はしない。

三男は土日にゲーム三昧の毎日であったが、それはそれでよいのだ。

見ていて面白いのは、兄弟間の競争の激しさである。

長男が中学校で野球部のキャプテンをやる。

すると、次男も同じようにキャプテンをやる。

長男がテストでよい成績をとれば、次男もそれなりに勉強を頑張る。

すると、三男は、中学校で「あの長男の弟」と「あの次男の弟」という触れ込みや期待の眼差しの元、 兄たちの同じ区立中学で育てられる。みんなからの期待があるから、期待により勝手に育つ。

つまり、親からのプレッシャーではなくて、兄弟からのプレッシャーで育つのだ。

 

子は、親ではなくて、兄弟や友達からほとんどのことを学ぶ。

わたしは、子どもを怒りもしない。 兄弟が喧嘩をしても、口を出さない。

友達と喧嘩をしても、アドバイスをしない。

大いに悩んで大いに苦しめばよいと思っている。

ただし、「おい、なにがあっても、死んではダメだぞ」とだけ、いうようにしている。

あと、そっと、子どもが興味のある分野の本などを家に置いておくようにしている。

低いハードルと高いハードルと共に重要 

「子どもは生きていてくれればそれでいい」 その通り。

それは正しいから、それを認めつつ、新しい挑戦を重ねましょう。

プラスアルファとして、子供に自活力(稼げる能力とやる気)を身につけさせるのも親の務めだと考えている。

生きる力は、人間の本来の最も強い欲求であり、兄弟への対抗意識であり、競争本能。

子の生存意欲を削がないためにも、「子どもは生きていてくれればそれでいい」という低いハードルと厳しさという高いハードルとを同時に用意をする。

だから、親は子に「やりたいことを自ら見出して欲しい」と伝えるのです。

やりたいことが見つかったら、それを応援するよ、と。

(長期で努力を継続して到達できる地点はどうしてもハードルとしては高くなります。日本一を目指す、世界を目指すということになれば、数年間に渡り懸命な努力を重ねなければ到達できません。)

公教育を共に支えましょう!

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