コーヒー牛乳の青春 1981   by yamamoto

このコラムを中村恵子さんに捧げる。

1981年2月2日 愛知県立春日井高校:コーヒー牛乳の青春。(天国の幸宏へ捧げる)part 1

 

ルールとは絶対的なものなのか。

===新聞記事===

1981年2月3日 中日新聞朝刊の記事(原文そのまま)

(大見出し)「耐寒マラソンを集団ボイコット」
(中見出し)「春日井高 『学校の一方的行事』生徒会反発、500人が集会」

【春日井】愛知県春日井市鳥居松町一の県立春日井高校(山本八郎校長)で、
二日から二週間の予定で始まった耐寒訓練を生徒が集団でボイコット。
約五百人が集会を開きボイコットの意思表示をした。
生徒たちは「この耐寒訓練は、生徒の意見も聞かず、学校が一方的に決めた行事だ」とし、三日以降も参加しないことにしている。
これに対し学校側は「教育活動の一つであり、生徒の都合を聞いて決める性質のものではない」とはねつけ生徒側と対立。
同夜遅くまで緊急職員会議を開いて今後の対応を話し合った。

(小見出し) 「学校側『教育活動の一つ』」

耐寒訓練は、二日放課後の午後三時二十分から一、二年生八百人を対象に行われた。
男子は二・五キロ、女子は一・五キロを走る校内マラソンで、ことし初めて実施した。
ところが参加した生徒は二百人だけで、六百人が集団でボイコット。
このうち五百人が校舎の間庭で集会を開き、先生の再三にわたる説得にも応ぜず、約一時間、学校側の一方的なやり方に不満をぶつけ、二日目以後も参加しないとの意思統一をはかった。

学校側がこの耐寒訓練を決め、生徒に通知したのは二週間前の先月十九日。
これについて生徒会は「教師側に昨年十一月、何か決めるときには生徒の意見を通してほしいと頼んでいたのに、あまりにも一方的だ」と、評議会にかけて検討した。
この評議会では「学校がもう少し生徒の意見を聞き、反映してほしい」との結論になり、耐寒訓練ボイコットの動きが出て来た。

これを知った学校側は「生徒会の活動の範囲でない」とし、生徒会活動を抑えようとした。
このため、生徒個々の活動としてボイコット連動が広まり、先月三十日には校内で生徒間の間で相互に呼びかけが行われて表面化、二日のボイコットになった。

運動の中心になっている生徒は「学校は、生徒の意見を聞く種類の催しではないというが、放課後に実施するため、クラブ活動がそこなわれ、生徒の自由な時間に食い込む」と反対の直接的な理由をあげている。
この生徒によると同校では、昨年四月、学級編制を能力別にしたが、学校側は実施直前まで生徒側に知らせなかった。
また、昨年夏休み以降、校内販売のコーヒー牛乳が予告もなく白牛乳だけになってしまったという。

こうしたことから生徒の間に不満が蓄積、耐寒訓練で一気に爆発したようだ。
生徒側は「事態収拾のためには、生徒総会を開き、要望を聞いてほしい」と話している。

同校は昭和二十七年、県立旭ヶ丘高校春日井分校として発足、三十八年四月に春日井高校として独立した。
同市内では一番古い高校で進学率の高いこの地方の名門校。
生徒数千二百人で、かつての高校紛争の際、卒業式問題でもめたこと以外、これまで特に大きなトラブルはなかった。

(指導、説得を続ける)

犬飼武教頭の話

耐寒訓練は学校教育の一環である。生徒の都合を聞いて決めるものではない。
生徒に対し指導、説得を続ける。
生徒に一日も早く落ちついてもらいたい。耐寒訓練をこのまま続けるか、中止にするかもう少し検討して決めたい。
十年ほど前の高校紛争のように発展しては困る。
何とか早く解決したい。

(小見出し)「『学校はき然とした態度を』県教育委」

春日井高の耐寒訓練ボイコットについて、愛知県教育委員会では「生徒の希望を聞いて処理することと、聞く必要のないことのけじめが大切」とし、き然とした態度をとっていく考えである。

県教委に入った報告によると、生徒会側は「年間の行事予定にない耐寒マラソンを学校側が生徒の意見を入れずに決めた」として反発。
生徒会の役員会を開いて不参加を決定。
先月三十一日の朝、校内放送を流してボイコットを呼びかけたという。
事態を重大視した学校側では、二日夕、緊急職員会議を開き
1)三日朝、授業前に一、二年生の全担任教諭が生徒に指導する
2)授業は正常に行う
3)授業後、生徒会の役員に指導するー
の三点を決めた。

県教委は、今回の事件は政治的色彩もなく、学校側の指示が徹底を欠いたことから生じた不満が一因ではないかとみている。
しかし「指導されるものが教育活動そのものに口をはさむのはおかしい。
一部の生徒が勝手に学校の公の放送施設を使って扇動したのももってのほか。
学校は断固とした態度で臨むべきだ」(久野保佑学校教育部長)としている。

県教委としては、一応事態は見守るが、状況いかんでは現地指導もする方針でいる。

(近藤秀案教育次長の話)

耐寒訓練が授業の一環行事なのか任意のものかわからないが、学校側で決めた行事に大量の生徒が反発、従わなかったようなことを重大にうけとめている。
その行動がグループ化しておりなぜこうした行動をとったのかを解明したいと思う。

---以上、1981年2月3日中日新聞(原文まま)----

僕はこの騒動の渦中にいた。

記事の中の「運動の中心になっている生徒」とは僕のことである。

県教委から「公の施設を勝手に使って扇動し、もってのほかだ」と糾弾されたのは僕であった。

八郎校長から、「校舎に触る資格はない。お前は退学だ!」と怒鳴られたのも僕だった。

そう、僕は退学となる「はず」であった。

記事は間違っていて、実は、ボイコットを呼びかけたのは、当日、2月2日朝の放送であった。
31日は、短めの放送をしたがボイコットは呼びかけていないと記憶している。

生徒評議会とは、生徒会役員と各クラスの学級委員(評議員)2名と生徒議長で構成される生徒側の意思決定の最高機関である。
僕はクラスメートで親友の幸宏と生徒会役員をしていたし、生徒評議会の議長も親友の富也だった。
生徒評議会は、1月30日の夕方に開かれた。会議は学校行事は無効と決議した。
耐寒訓練の不参加は全学級の全会一致だった。

半年前から、管理教育批判で作詞作曲してギターの富也とベースの幸宏とボーカルの僕の三人でバンドを結成、文化祭で過激な歌の数々を発表した。
バンドの録音テープは昼休みに放送部が流した。

こうした学校批判さえも、自由に受け流すのは、春日井高校の自由を重んずる寛容精神であった。
僕らはこうした自由な校風に憧れて春日井高校に入学した。

ところが、僕たちが2年生になるころ、自由はひとつひとつ奪われていった。

「学校に自由を取り戻す」が僕らのスローガンだった。

ボイコット当日2月2日夜。
先生たちは深夜まで会議をしていた。

幸宏と僕は富也の自宅に集まり、対応策を練っていた。
夜10時頃、チャリンコで学校をスパイする。

すると職員室にはまだ煌々と明かりが続いている。
先生たちが激論を戦わせているのがわかった。

この時点で翌朝の新聞記事のことは、全く予想していなかった。
新聞記者を誰が呼び寄せたのかも僕たち生徒会は全く知らなかった。

当日、2月2日にボイコット集会時に校長から退学だと宣告されたのは、僕であった。

だが、富也も、自宅からマイク、延長コード、アンプやらを集会のための機材を無断で運び入れたので学校から見たら罪は重かった。

県教委は「断固とした態度をとれ」と校長に指示していたし、事実、校長は僕らの退学をすでに500人の前で宣言していた。

この小さな事件を、いまさら、ではあるが、いま、書き残しておこうと思った。

ひとつは、数年前、舌癌でこの騒動の当事者のひとりである、中村幸宏が死んでしまったこと。
ベーシストだった彼の残したベースラインを書き残しておきたかったため。

もうひとつは、たとえ学校には不名誉な事件であっても、春日井高校の校史として誰かが書き残すべきだと考えてたからである。

僕らの取り戻したかった自由とは、

「コーヒー牛乳よ、もう一度!」

という小さなもの。

親や先生にとっては、つまらないものかもしれないが、僕らにとっては、なぜだろう?とても、大切なものだった。

翌朝2月3日の朝、新聞を見た。それが冒頭の記事である。
どうして高校の行事のボイコットという小さな出来事がこんなに大きな記事に??

新聞沙汰になってしまったことに対する狼狽、また、こんな小さな出来事がまるで大事件のように扱われてしまったことへの驚き。

僕は、びっくりして叫んだ。「なぜだ!!」

P.S.

17才の僕は校則は意味がないと思っていた。嫌ならば学校を辞めるしかない。
校則を在学中だけ守れば別にどうってことないのにね。
守らない奴は学校から見れば悪だ。
それは学校側の論理。校則が嫌ならばその学校に行かなければよい。以上!
しかし、なんの予告もなく、校則がどんどん厳しくなっていくとき、それでも学校はいつでも正しいのだろうか。
ときには生徒と学校との対話が必要なのではないか。

昔、生徒の話を真剣に聞いてくれる先生方がいて、少しやんちゃな僕たちがいて、僕らが校則を変えた。これはそんな話だ。
自分の規範で生きると、組織の規範とはどうしても衝突する。
規則の中に馬鹿らしいものがあれば、それは変えるべきだ。
そのとき、組織にも多様性を認める文化があれば進化できるのだが、問答無用の組織が多い。

西嶋先生という倫理社会の臨時教員は男子生徒の人気が高かった。
授業中に男と女に関するエロい話をするからである。

西嶋先生が、隣のクラスの連中に示唆した。
「お前たち、このままボイコットをすれば、生徒会の連中は退学になるぞ」
それを避ける方法がひとつだけある。これを表沙汰にするのだ。

西嶋先生は、マスコミにボイコットの情報を流せという示唆をした。
示唆をうけて隣のクラスは「2月2日の3時に春日井高校に来れば面白いものが観れますよ」
と朝日、読売、毎日、中日の各新聞社に匿名の電話をした。
それで各社朝刊に大きなボイコットの記事が載ったというわけだ。

 

1981年2月2日 愛知県立春日井高校:コーヒー牛乳の青春。(天国の幸宏へ捧げる)part 2

 

 組織と個人。生徒と先生との対話による解決。
 親と子供、社長と社員、対立を解決へと両者の努力で導くことはできるのか。

 一緒に考えてください。

【1回目の内容】

全校生徒による耐寒訓練ボイコット事件を新聞記事から紹介。
この小さな事件を、いまさら、ではあるが、いま、書き残しておこうと思った。

ひとつは、当事者の一人、中村幸宏が舌癌で7年前に死んでしまったこと。
ベーシストだった彼の残したベースラインを書き残しておきたかったため。
もうひとつは、たとえ学校には不名誉な事件であっても、春日井高校の校史として誰かが書き残すべきだと考えたからである。

==吹き荒れる管理教育の嵐==

1980年、愛知県には新設高校を中心とした管理教育の嵐が吹き荒れていた。

生徒の自殺が相次いだ。愛知の行き過ぎた管理教育は社会問題となる。

1980年2月には週刊プレイボーイで
「今、高校生に襲い掛かるファッショの嵐」
と特集。東郷高校はT高校との表現で掲載された。

1982年7月にNHKは「愛知の教育を考える」を放映。
宇治芳雄の「禁断の教育」を1981年9月に発表。管理教育を告発した。

その後、当時の東海高校の生徒の藤井誠二の「おいコラ!学校」(84年)がベストセラーになった。
学校が生徒へ行った洗脳教育の手法や生徒への恒常的な暴力が生々しく描かれている。

春日井高校は新設校ではなかったが、じわり、じわりと周辺高校の管理思想の影響を受ける。

実際、僕たち生徒はどんどん厳しくなる規則に辟易としていた。

「ゲームセンター事件」が起こる。

放課後に繁華街のゲームセンターに入り浸っていた生徒数人を生活指導部の先生方が補導するという事件であった。
まあ、たばこを吸っていたのはいけなかったのかもしれないが、学校の外の話。
捕まった生徒たちは、一週間、校庭の草むしりをする羽目となった。
僕はこのことを歌にして反抗した。

さらに、頭髪事件が起こる。

服装検査という検査が急に始まったのだ。
校門前で生活指導の先生方が、生徒を呼び止める。
スカートが長すぎる、化粧がいけない、学生服のカラーが外されている、
など、服装の乱れは心の乱れというスローガンで始まった。
僕はこのことも歌にして反抗した。

 

「指導部なんかぶっとばせ!!」 (1980年) 作詞作曲 山本 潤

 頭にくるよなぁ このごろは なにからなにまで 取り締まり…

いったい ぜんたい どういうわけさ!! ああ恐ろしや! 規則の学園

気分転換に たばこをすったら退学!????

ゲームセンターでアイスクリーム食べたら草取り….

これじゃ あんまり ひどすぎるぜ!

指導部なんか ぶっとばせ!!

ムカムカくるよなぁ このごろは…

生徒はいつでも苦しんで!!

勉強! それ勉強!! 追い立てられて…

朝から晩まで缶詰さ…

気分転換にバイクに乗ったら退学???

そんならパーマをバシッと決めたら 呼び出し…

これじゃあんまり ひどすぎるぜ!

指導部なんか ぶっとばせ!!

事の発端となったコーヒー牛乳の自動販売機。

学校で飲むコーヒー牛乳が楽しみだったのに、ある日突然、夏休みが終わった途端、白牛乳だけになってしまったのである!

生徒は騒然。
え?なんで? おい、どうしてだよ!

生徒が先生に理由を尋ねる。
理由は「コーヒーは健康に悪い」であった。

憤りしかない。
コーヒー牛乳を飲む自由を取り戻す。
僕たちのささやかな戦いが始まったのである。

===戦いの始まり。中村幸宏という男のとった髭ボウボウ作戦===

「頭髪」検査に反抗して、幸宏は「髭」を伸ばした。
「髭」は「頭髪」ではない。

それでも、学校からは「髭」を剃れと言われていたが、そのとき、学校に対して幸宏はこう返した。

「髭はなぜか生えてくるんですよ。剃ってもまた生えてくる。キリがないでしょう」
学校にすれば問題行動であった。

髭を伸ばしてジャズを聞いていた幸宏はもう大人の雰囲気を漂わせていた。
ベースが飛び切りうまい。彼の弾くチョッパーは高校生離れしていた。
学校帰りはDo Musicというスタジオでバンドの練習をしていた。

幸宏は制服のカラーを外して、ボタンを閉めないで、髪の毛を少し浮かせていたのだが、髭は濃かった。

幸宏に勇気付けられた僕らは、反撃に出る。

「指導部なんかぶっとばせ!」というジャズ風の曲を作り昼休みに放送。
曲のアレンジは幸宏であった。生徒の反骨精神を鼓舞。
放送部の部長は林。後輩だが信念のある男だった。

(歌詞は、「一体全体、どうしたわけだ?生徒はいつも苦しんで。。。これじゃ嫌になっちゃうぜ。指導部なんかぶっとばせ!!」。)

さらに、規則の虚しさをロックにした「なんちゅうふうだ」という曲を文化祭で広めた。

(歌詞は、「希望に燃えて夢を求めてこの学校に来たけれど、なんじゃらこんじゃら、がっかり後悔、お家に帰りたい。。。」)

1980年の秋の文化祭。

幸弘のベースラインが小気味よく弾ける。流れるカウンターライン。
富也と僕は、それに飛び乗る。
音楽室で行ったライブだった。
17才の僕らは汗だくになって、叫び続けた。
「生活指導部なんか、ぶっとばせ!」と。

(注意:生活指導部というのは、生活指導室という詰所に控える体育会系の体格のよい数人の教師の集団であり生徒の頭髪検査などを統括していた。)

===バンドメンバーの生徒会への立候補===

僕らが教室でたむろしていると、サイドギター担当の久野が、次の生徒会に立候補をし学校を変えたいという。

教室の黒板で、有志が集まって、あみだくじ。
適当に会長、副会長、書記、会計などを決めた。

まるで勉強ができない劣等生たちが生徒会に全員当選した。
しかも得票率9割という圧倒的な支持を得た。

なにせ、生徒会立候補の演説の代わりに「ロック」を演奏してしまったのだから。

その内容の過激さから生活指導部の先生によってすぐにマイクの電源は切られてしまったが、聴衆には熱が伝わった。

歌のベースラインはすべて幸宏がユニークに作った。
ドライブするベースラインでみんながノリノリになる。

今度の生徒会は学校と戦う生徒会なんだ。
みんなの期待を一身に背負った。

ターゲットは制服検査。こいつをまず、やめさせる。
僕は髪の毛の色などはどうでもよいと思っていたし人権の侵害ではないかと思っていた。
校門に先生たちが立って、女子生徒のスカートの長さや前髪の長さをチェック。
ひどい場合はハサミが登場した。

これは心情として許せなかった。

自由な校風の学校は、こんな検査はやらない。
管理教育に染まった先生の一部が急に他の学校を真似してしまったのだ。

教室に入ると服装検査に慣れていない生徒たちがプンプンに怒っている。
女子は特に反抗した。

服装検査は先生ではなく、生徒が自主的にやることを生徒会で決議。
評議会でも議決した。

先生に要望を伝えた。
が、何も変わらない。

===ボイコット前夜===

ボイコット作戦は富也が指揮した。成績学年トップクラスであった。

4月に配られた年間行事表をとってあったのだ。
1月29日、生徒会議会の前日に、富也は興奮していた。

「おい、見つけたぞ」。

富也は得意げであった。彼の右手にはピラピラとB4のわら半紙。
1980年度の春日井高校の年間行事予定表であった。

耐寒訓練は年間の行事表には載っていなかったのだ。
つまり、これは生活指導部の思いつきにすぎないということを示していた。
恣意的な力が働いて、耐寒訓練が急遽実施される。

春日井高校では学校行事は生徒会の主催であった。
耐寒マラソンは生徒会の主催ではなく学校主催なのだという。

僕らは学校主催ではなく、生徒会主催であるべきだと主張した。
そのためには、拙速な訓練を中止し、やるにしても生徒主体の来年度からの実施を要請した。

そうでなければ、先輩たちが築いてきた自由な校風が死んでしまう。

この富也のファインプレーによって、全クラスが集う生徒会議で、全クラスの評議員が憤慨してボイコットに賛同したのである。

僕らは耐寒訓練をボイコットすることを決議して、耐寒訓練の当日を迎えた。

===ボイコット当日のこと===

1981年の2月2日ボイコット当日の朝はよく晴れていた。

朝7時半、チャリンコを駆って僕は高校へ急ぐ。
僕は名古屋市とはいえ、北の端っこの守山区の高島町から、松河戸橋を渡る。
そこは一面の畑。あぜ道を突っ切ると春日井市立中部中学を右手に見て通りすぎる。
あとは、中央線の無人踏切をわたり、愛知県立春日井高校はすぐだ。

チャリで10分の行程である。

ちょうど、春日井高校の東に位置する正門前では、生徒会議長の富也が重たそうにアンプやマイクを搬送していた。
アンプを持つのを手伝って、富也の2年1組の教室にアンプとマイクは隠す。

午前8時前、放送部の部長の林が、僕を放送室に通す。

先生方がかけつけても放送室には入れないように入り口をロックアウトした。
林は、入念に、全校放送の準備をしているが、故意に職員室にだけ放送が流れないようにした。

「山本さん、こうすると職員室には放送は流れないですよ。
職員会議で先生方はこの時間は職員室にいます。
放送するならいま、このタイミングしかない。」

放送室から職員室のスイッチだけをオフにして、僕の放送は始まった。

これが愛知県教育委員会の主張した「公共の施設を占有しての扇動」だ。

わたしたちの行動は「計画的で極めて悪質」であると愛知県の教育委員会は決めつけた。

「お知らせいたします。生徒会議会において、本日放課後に予定されていた耐寒マラソンは無効となりました。つまり、中止です。
放課後に、全校集会を中庭にて開催いたします。全校生徒のみなさま、耐寒マラソンは中止します。放課後は全校集会のため中庭に集まってください。」

幸い、先生方は放送室に飛んではこなかった。

職員室にはいかないでクラスで放送を聞いていた先生方もいらっしゃったが、容認してくれた。

「ほう、生徒会か。面白いやないか」
と言ってくれた先生もいた。

すぐに放送室を出た。
富也と僕と幸宏は1年1組からオルグに回る。他の役員も総出でオルグした。

先生の指示を無視して(先生を振り切って)、マラソンに参加しないで、中庭に集まるようにと。

「このまま学校の言いなりになれば、君たちはダサいヘルメット通学になるぞ」
と。

ただならぬ生徒会役員の気迫あふれるオルグに一年生たちは、ただ、うんうんとうなづいてくれた。

クラス担任がすでにいるクラスもあり、僕らのオルグを先生方はよく聞いてくれた。そして、僕らの行為を容認してくれた。

そして、放課後。
先生たちを振り切って、僕らは中庭に集まった。

野球部の主軸3番バッターの原科が
「おーい、来たぞう!途中で(野球部顧問の)饅頭(服部先生のあだ名)がいたから、心臓ばくばくだよ」。

僕は感謝の印として「来てくれてありがとう」といった。

こうしてボイコットは成功した。
先生の呼びかけを振り切り、中庭に全校生徒の3分の2の生徒が集結した。

僕は集会のアンプの電源を2年3組のH先生のクラスのコンセントからとろうとした。
しかし、H先生は、コンセントの前に立ちふさがって、それをさせない。
H先生の担任クラスのコンセントを使われるとボイコットに加担することになるというのがその拒否の理由だ。

僕は諦めて、隣の2組から電源を引いた。
H先生に隣のクラスならいいのかと聞くと、それは知らないという。

僕は、こういう二枚舌の人間にはなりたくないと思った。

幸宏は集まった生徒たちを見て満足していた。
生徒会の役員たちが、マイクを持ち、「いい天気だねえ」とのんきに演説した。

特に新聞記事にあったような、明日以降もボイコットを続けようと意思統一したということではない。
集まって、みんな、よく来たねで終わりにしたのだ。なんの要求もせずに。

山本八郎校長は、勇敢にも一人で集会に乗り込んできた。
激怒のあまり、右コメカミに青筋が浮き出ていた。

中庭に集まった500人を超える生徒たちを前にして、さすが校長。
「中止中止」と大声で怒鳴っている。

「おい、何を勝手にやっとるんだ。解散しなさい。こら、誰だ、これを扇動したやつ、誰だ!」
と続けた。

怒り心頭のあまり、どもっていた。

僕は校舎をよじ登って、2組の窓枠に立った。
そして、有りっ丈の声で叫ぶ。

「校長先生、僕らは僕らで物事を決めることにしたんだ!学校は生徒のものだ!」

集まった生徒たちはやんやの大喝采である。
そのとき、生徒たちが、ザザッ、ザザッという音で校長を取り囲む。

校長は、僕を下ろそうと窓まで近づこうとしたが、周りの生徒たちが校長を完全に取り囲んでしまった。

校長は、悔しそうに声を張り上げた。

「おい、お前が扇動したんだな、お前だな!お前には校舎に触る資格はない。お前は退学だ!!」

生徒がズッズと校長を取り囲み、身の危険を感じた校長を生活指導部の先生方が体を張って救助する。

生活指導部長が、
「な、な、お前たち、話し合おう。話せばわかる。どうだ、いまから体育館へ行かないか?」
と述べた。

当日の夜遅くまで職員室には先生方が残ってくださった。
先生同士の話し合いの内容はわからないが、深夜まで激論が続いた。

富也と幸宏と僕は、夜10時ごろ校庭から職員室の中を覗いていた。

===ボイコット翌日 1981年2月3日 春日井高校===

先生方は疲労の色は隠せなかったが、授業は行われた。

約束通り、生徒会と校長との話し合いは行われた。
冒頭、山本八郎校長は、僕たちに「冷静にいこう」とおっしゃった。

===1981年2月4日 中日新聞記事 (原文そのまま)===

(大見出し)耐寒訓練の春日井高 事態収拾へ動く
(小見出し)学校と生徒代表話し合い
(記事)
【春日井】
耐寒訓練を生徒がボイコットした愛知県春日井市の県立春日井高校(山本八郎校長)で三日放課後、事態収拾のため生徒代表と学校との話し合いが行われた。
席上、学校側は学校行事については生徒たちの意見を十分に聞くと約束したうえで延期している耐寒訓練を再開するとの意思を伝えた。
生徒たちは四日、各クラスでホームルームを開き、話し合いの内容を伝え、クラスの意見をまとめた上、再び学校側と話し合うことになったが、大勢は収拾に大きく動き出した。

この日の話し合いに参加したのは生徒側が一、二年生十八クラスの代表二人ずつ、生徒会役員八人の計四十四人。
学校側は校長、教頭、学年主任ら八人。
話し合いは放課後午後三時三十分から二時間半にわたり行われた。
「事態収拾のため感情的にならず話し合おう」と山本校長が切り出し、生徒の質問に学校側が答えるという一問一答形式で進められた。

この中で生徒の「学校行事に生徒たちの意見は反映させられないのか」の質問に対し、学校側は「生徒の意見は十分聞く。とり入れられない場合は、納得のいく説明をする」と答えた。
さらに、学校側は今後も話し合いの場をつくるなども約束した。

この後、学校側が「耐寒訓練を再開したいので、クラスに帰ってみんなの意見を聞いてきてほしい」と提案、生徒代表も了承した。
同校では四日の授業を五分間ずつ短縮、午後約三十分のホームルームの時間を設け、クラスごとに生徒たちと話し合った後、同日放課後、もう一度、生徒代表と学校側と話し合うことになった。

(山本八郎校長の話)
父兄のみなさんもかなり心配しているようなので早く収拾したい。
生徒たちが間違っていることははっきり指摘するが、意見は十分聞いてやりたい。今回のボイコットに対しては当面処罰は考えていない。

(生徒代表の話)
いままで学校側は生徒の意見を無視し続けてきたが、今回の話し合いで機会があるごとに生徒と学校との話し合いの場を設けてくれると言っており、評価している。学校側が熱意を見せており、問題の収拾を図りたい。

===僕らは早期収拾を図った===

ルールはルール。逆らった奴が悪い。
これが管理教育の根っこにある思想であった。
でも、それは教育とはいえない。

先生方は、頭ごなしではなく、生徒との話し合いの場を設けた。
それだけではなく、連日、夜遅くまで議論をされていた。

幸宏と僕は、深夜まで先生たちは会議している現場を校庭からチャリに乗って眺めていた。

僕たちの中に自然に溢れ出た思いは
「先生たちに、こんな深夜まで会議させて、申し訳ない」
という感情であった。

幸宏と僕は目を合わせた。
「引くところは引かなければならない」。

学校と生徒は上下の関係だ。
上下の関係だからこそ、話し合いは重要であった。

県教育委員会から毅然とした態度をとれと指示されていた山本八郎校長であったが、彼の英断で、僕らは退学にならなかった。

P.S.

1982年。卒業を控えた僕たちは、愛知県教育委委員会を「偏差値怪獣」と命名し、「偏差値怪獣にねりわさび光線をあびせる会」を結成した。
「ねりわさび」とは、僕たちの作成した雑誌名。「ねりたてのからさ」が売りであった。
習熟度クラスに反対、賛成のアンケートを実施。圧倒的な生徒が反対を表明していた。

富也は、学年トップの秀才で、どの大学にもいける学力があった。
なぜか地元の私学に第一志望で工学博士となり、いま、某大学で工学教授をしている。

あのボイコット事件を思い出すとき、幸宏のベースラインが鳴り響く。
音楽室。体育館。公民館のホール。Do Musicのスタジオ。

僕らは卒業後もライブをした。
大学生のときは幸宏とはジャズライブハウス「Aトレイン」に通ったものだ。

幸弘は、生協でロジスティクスを担当していたが、残念ながら、2010年6月1日46歳の若さにも関わらず舌癌により死去。

幸宏は昭和38年12月16日生まれ。
春日井市立東部中学を卒業後、春日井高校へ進学した。

1981年2月2日。
幸宏もまた、退学覚悟であったし、僕たち全員、退学覚悟であった。

服装検査に抗議する幸宏の勇気ある「髭ボーボー作戦」から、僕らの反撃は始まった。
「髭はなぜか生えてくるんですよ。剃ってもまた生えてくる。キリがないでしょう」と幸宏は主張し、学校と対決した。

36年後、2017年の我が母校、愛知県立春日井高校。
ボイコットの集会を決行した中庭。その西側に校舎をつなぐ渡り廊下がある。
渡り廊下の下に飲料の自動販売機が設置されている。

自動販売機は、当時のガラス瓶ではない。
紙パックジュースが並ぶ。MEIJIの乳製品群だ。

白牛乳だけではなく、いちご、バナナ、コーヒーなどの様々な豊かな飲料が並ぶ。
後輩たちは、少なくとも自動販売機に関しては、「自由」を謳歌している。

この自由は、当たり前のものではない。勝ち取った自由なのだ。

1981年2月2日 愛知県立春日井高校:コーヒー牛乳の青春。(天国の幸宏へ捧げる)part 3

  • 2017.06.29 Thursday執筆

ルールとは絶対的なものなのか。
一緒に考えてください。

【前回までの内容】

荒れ狂う管理教育の嵐。愛知県立春日井高校の生徒会は学校側と戦うことを決意。
学校行事を生徒全員にボイコットを呼びかける。
ボイコットは成功。学校側と生徒側との対話が始まった。
深夜遅くまで会議を続ける先生方への申し訳なさから、僕らは事態の早期収拾をはかった。

====1981年2月7日 中日新聞===

大見出し -耐寒訓練きょう再開-
小見出し -春日井高 授業を短縮し実施-

【春日井】
耐寒訓練を生徒がボイコットしていた愛知県春日井市の県立春日井高校(山本八郎校長)は六日、生徒の下校時間を遅らせない方法で耐寒訓練を七日から再開することを決め、生徒たちも納得した。
二日のボイコット騒ぎ以来、五日ぶりに正常化する。

六日は午後二時二十分からの六時間目に一、二年各クラスでホームルームを開き、担任の教師がそれぞれの教室で生徒の指導、説得をした。
さる三日の生徒代表と学校側の話し合いで学校がすでに生徒の意見を聞くことを約束しており、生徒たちの間に耐寒訓練参加の動きが出ていた。
この日、学校側が決定した。
授業を短縮して本来の下校時間までに訓練を終了させるという通知に反対の声はなかった。
授業時間を短縮するのは生徒の下校時間を遅らせないよう配慮したもの。

七日は土曜日のため午前十一時四十五分から午後零時三十五分までの四時間目を耐寒訓練にあて、九日から十三日までは、授業を五分間ずつ短縮、午後二時四十分から三時十分まで訓練をする。
同訓練は当初予定されていた十三日で打ち切り。
十四日に行う予定だった校内駅伝は中止する。

-生徒代表の話-

下校時間を遅らせないという要求が聞き入れられたので満足している。
まだ不満の者もいるが、学校側が今後話し合いに応じてくれるというので、要求を出していくつもり。

-山本校長の話-

耐寒訓練の時間を早めたのは女子生徒の安全を考えてのこと。生徒たちの不満はクラス担任を通すなどルールに従って出されれば聞いていきたい。

----以上、原文のまま----

耐寒訓練が始まった。

僕らはジャージに着替えて、校舎をゆっくりと周回した。
新聞記者とカメラマンも生徒が走る写真を撮っていた。

翌日の新聞各紙には、生徒が「楽しそう??」に先生たちと走る姿が新聞に載った。

管理教育は善だったのだろうか。
確かに、規律を強化することで、一時の大学進学率は上がるだろう。

親もそれを望んでいる。

だが、本当に大切なことは、生徒自身の意志であり、「盲目的に従う」ことは社会的な付加価値とはならない。

組織にはおかしなルールがある。
おかしなルールは組織の構成員の合意のもとで時間をかけて変えていくべきだ。

僕らが生徒会選挙で歌った歌が以下の歌である。

作詞作曲 山本 潤 アレンジ 中村幸宏 (1980年6月)

-なんちゅうふうだ-
(C)希望に燃えて(F)夢を求めて(G)この学校に(C)来たけれど(G)
(C)なんじゃらこんじゃら(F)がっかり後悔(C)お家に(G)帰りたい
(C)

(C)いましかできない(F)ことをやって(G)みるのが青春だと
(C)信じてた(G)のに
(C)ああしろ、こうしろ、(F)ガミガミわめく(G)指導部長にゃ
(C)驚い(G)た(C)

(F)パーマを(G)かけては(C)いけません
(F)バイクに(G)乗ったら(C)退学だ
(F)スカートの(G)長さは(C)いいかな?
(F)バッチは(D)ボタンは(G)ワッペンは?
やってられない!(G)

(F)規則規則規則規則(C)規則
(G)規則規則規則(C)規則規則
(F)規則規則規則規則(C)規則
(G)規則規則規則(C)規則規則

(幸宏のベースの間奏)

やってみたいことがありすぎて困っているというときに
一日四時間勉強しろとは少し非常識じゃないですか
なにも学校の勉強だけがすべての勉強じゃないはずで
テストテストで苦しむことほど馬鹿げた勉強はないのさ

髪の毛は肩のとこまでよ
靴下は白をはきなさい
遠足はジャージでいきなさい
成績で分けられたクラス
がまんできない!

(F)規則規則規則規則(C)規則
(G)規則規則規則(C)規則規則
(F)規則規則規則規則(C)規則
(G)規則規則規則(C)規則規則

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中村幸宏は芸術的なベースラインを作った。

このことを書き留めたいと思ったのは、当事者のひとりである幸宏が2010年6月1日に舌癌で46才の若さで亡くなったからである。

僕たちは高校生のころ反抗期の真っ最中だったから、幸宏はこの事件のことを母上に話さなかっただろう。

幸宏から始まった学校との戦いを、彼の立派な生き様を、幸宏の母上に読んでもらいたいがためだった。
母上がご存命のうちに。それも、このコラム執筆の理由のひとつだ。

先日、幸宏の母上の恵子さんにお会いしたときは、

「出来る人は神様がすぐにほしがるから早く天国に行ってしまう」

とおっしゃっていた。

その通り。よい人はすぐに神様に呼ばれる。
逝くには早すぎたな、幸宏。僕がいくまで待っていてくれ。

僕は心の中で、思った。

「天国で、幸宏、おまえ、やることあるのか?」

僕らの力を必要としているのは、むしろ、いま、地獄で苦しんでいる人々だ。

幸宏は弱きを助け強きをくじく男だ。

幸宏、僕が死んだら、今度は、地獄に乗り込もう!!!
そして、もし、地獄が理不尽さで満ちているならば、
共にあの世を変えていこうじゃないか。

 
(コラム執筆から一年が経ち、恵子さんから、2018年6月電話をいただく。
母親が知らなかった数々のこと、教えてくれてありがとうと。
いえいえ、ありがとうというのはわたしです。幸宏がいたからこそ、勇気を持てた。
彼がいなければわたしは一歩を踏み出せなかった。)
 

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