子育てコラム #25 世間知らずの息子が仙人になりたいといったら? 親はどうするべきか?

2019年12月25日

「岐阜県の山奥で仙人になる」と息子が親に真顔で訴えたら、親はどうすべきでしょうか?

その息子は21才。出来の悪い私でした。大学に二年行かず、行方不明。そして村の哲学者を目指していた。

親は親族を集め、息子を呼び、重大な家族会議が開かれました。

その結果はどうなったのでしょうか??? (子育てコラムも25回目を迎えました)

3年前の2016年10月9日にこんなものを書いていました。

1935年生まれの父は60歳で教師を定年。

その後、町内会長を10年務めつつ、趣味として地域の運動の記録映画を撮ってきた。わたしは1990年、上京。そして結婚。1997年長男が誕生。それ以来、わたしの4人の息子たちの保育園の卒業式には、わざわざ上京して、ビデオ録画をして、編集してくれた。

そして「まるまるちゃんの卒業式」というDVDにしてくれた。

父の教え子には、いま、早稲田大学で映像文化を教える教授もいたりした。若いときは、映画監督になりたかったとのだとよくいっていた。

いま、地域社会の中で、2週間に一度、映画を選定して、地域で映画を見るという活動をしている。

人生の最後は、「やはり映画だね」と楽しそうだ。邦画では、山田洋次監督の作品を何度も鑑賞しては、「なるほど」と唸っている。父は寅さんの大ファンだ。

出来の良い妹が、地元に残ってくれて、難関の上級公務員試験を1991年にパスして名古屋市役所で働き始めてから、23年になるが、妹が社会人になってからも、正月は父は妹を連れて「男はつらいよ」によくいっていたものだ。

母は、どうだった?と父に感想を聞くと、「もう、寅さんはくたびれてきた。元気がないから心配だ」といっていたものだ。

寅さんの最後の数話は、主役は満男くんになっていった。

妹は出来が良く、地方公務員上級という試験に一発で受かったのだ。

そんな妹は父の誇りであったのだろう。

一方で、私である。親元の名古屋に住みつかないで、大学にもいかず、どこにいるかもわからない息子のことでは、父は頭を悩ませていたにちがいない。

大学にもいかず、プータローをしていた私は、父とはずっとソリが合わなかった。

中学校、高校、大学と反抗期が長期化していた。

サラリーマンとか公務員とかなりたいとは思わなかったのだ。

ジャズピアノばかり練習していたため、大学には2年の後期、3年生の前期と後期、4年生の前期と、全く行かなかった。

わたしは大学の籍はなくなっているだろうと思っていた。

そのとき、春日井高校の同級生でもあった彼女と春日井市で同棲していたのだが、誰にも居場所を教えなかったので、行方不明となっていた。

大学の担当教授から父に電話があり、息子さんが大学にずっと来ておらず、どこにいますか?と聞かれて、父も「あいつがどこにいるのかはわからない」と答えるしかなかった。

それで両親がわたしを探し続けていて、わたしを「発見」。

よく見つけたものです。

親族会議を開く… とりあえず、息子の話を聞こうか…

すでに4年の後期となっていて、父が久しぶりに「お前、一体、何をやっておるんだ。たわけものが!」と言ってきて、親族があつまり、

潤がプータローになってしもうた、もう、どうしようもないと、親戚も家族も、

ピアノの先生も交えて、わたしの将来について集まりを開いてくれたことがある。

どうしたいのか。どうするべきなのか。各自が思い思いのことを話すが、まずは、問題児であったわたしの気持ちを聞こうではないかということに。

わたしが21歳の8月か9月であった。

「音楽でお金は稼ぐことは大変だ」とピアノ先生がいってくれたが、

みんなの腹は、こうなったら、音大にいかせて、音楽教師という道を歩ませたらどうか?という結論を親戚やピアノの先生たちと話をすでにしていたようだ。

要は、金策の問題であり、安定した教師という職を目指すなら、家でも売って、音大の学費を出してやるという。

将来はどうするのだ。何を目指すのか。

いろいろな意見が出たが、決めるのは自分である。

こう、真面目にいわれると、ふざけた態度はなかなかとれない。

だが、本気で思っていることを言った。

「おれは、ある村で哲学者になる。村は、岐阜県の山奥を考えている。」

親族のみんなの顔があきれるのがわかった。

父は、教師。教師は世間知らずであった。

その世間知らずの自分に輪をかけて世間知らずに息子を育ててしまったことを悔いたという。

それって…プータローではないか???

いまでいうところのプータローです。

父が「一体、お前は何をしていたんだ。この4年間は?お前を大学に行かせて、4年経ち、この有様だ。台無しにしよって!」というので、わたしは「おれは、ぶらぶらしていたんではない。いつも懸命にピアノを練習していたんだ」とこたえる。

「ふん、プロで食えないなら、時間を無駄にしてしまったということだ。これじゃあ、どうしようもないじゃないか」と父が叱責するので、わたしはこう言い返したのです。

「違うよ。意味はあったんだ。その分、ピアノは上手くなったのだから」。

(これは本当にそうで、何か一つを選び取り、それを一生懸命モノにしようと頑張るという基本姿勢が人生で身についたのですから…)

世間知らずには、無難な中道路線を…とりあえず、卒業だけはしようか

息子がどんな仕事に就こうが、親が関わるべきではないだろう、ということになり、

そのことをよくわかっている母が言った。

母、「お前、もう、明日から働け。名古屋の工場を紹介してやる。」

甘ったれるな。すぐに彼女と結婚して、働きなさいというわけだ。

「母さん、違うんだよ。彼女は、工場で働く俺を好きになったんじゃないんだから」

母は、そんなことはしらない。責任をとれ。工場勤務ですぐに働けという。

場の空気はわたしは明日から工場勤務の工員になる、という流れになった。

しかし、わたしには工場勤務が現実的なものに思えなかった。

それに、工場に勤務していては、村の哲学者にはなれない。

そこで、父が助け舟を出した。

父は、わかった。音大に行け。音大を出て音楽の先生になってくれ。ミュージシャンやピアノ教師じゃ食えないぞという。

それで、父は、わたしの音大の学費のために、名古屋の自宅を売るつもりだという。

一方で、行方不明であった時期、「いまの大学に復帰できるように、大学にも学費は払ってある」。

わたしにすれば、執行猶予の判決のようなもので、大学に戻って、仕切り直しかなと。

両親に自宅まで売られたら、バカ息子のそのまたバカ息子になってしまう。

「おれは、音大を受験しない。いまの大学をとりあえず卒業して、どこかに就職するよ。まあ、心配させてすみませんでしたね」といった。

父はこういった。「そうか。みんな、忙しいところ、今日は息子のために集まってくれて、ありがとう。潤は、とりあえず、大学に戻ることになった」

そう父は仕切って、親族会議は終わった。

親が子にペナルティ?を貸す

さて、2年間の学費を無駄にしてしまったので、ペナルティとして復学後の仕送りはなかった。鍋田学習塾の鍋田大蔵先生が生活の面倒を全部、見てくれた。塾で住み込み、バイトし、卒業。大学院まで行った。

そんなことができたのは、国立大学の学費が今の6分の1だったからだ。わたしの先輩は半期学費で4万円程度であった。そして、学生寮ならば電気代を入れて月に300円であった。

だから、十分に生活できた。

わたしが学生のころ、就職しないという選択は、そんなにめちゃくちゃではなかった。就職しない先輩もたくさんいた。

それは、いまより、食べていくことは難しくなかったからだった。

その後、世の中は変わっていく。パラサイトシングルや就職氷河期やブラック企業など、若者を取り巻く環境はむしろ、悪くなっているのではないか。

音楽を諦めた理由のひとつが、カラオケの普及だった。キャバレーでわりのいい伴奏の仕事が急速になくなってしまった。

そして、もうひとつが、ジャズマンの生き方に触れて、昼間には土方や羽布団の訪問販売なんかやっている苦労を見てしまったから。自称プロになっても、練習時間はそんなにとれないという恐怖。わたしにとっては、ひどくこたえた。

この人たちは、2年前より上手くなっていない。そして、この人たちは、これからも、注目はされないだろう。

バンド仲間の先輩諸氏を見て、そう思えてしまったことだった。

時が過ぎ去り、いつの間にか、音楽は一人でヘッドフォンで聞くものになった。

(私も含めて大量のミュージシャンが消えていった。)

復学後、あるバーでピアノ弾きのバイトをしているときに、田舎からきたおじいちゃんが、

「なあ、にいちゃん、「ふるさと」を弾いてくれないか?」とリクエストしてきたことがあった。

ふるさとを心を込めて弾いたとき、おっちゃんの目から涙が溢れてきて、俺はそのとき、ピアノを弾いていてよかった、と思ったものだった。

グローバル企業が隅々まで入り込めば、均一で高質なサービスをみんな受けるようになったのだけど、

僕らの時代は、下手でも絶対にオリジナル曲を作っていたものだ。高校生ならば、誰だって、オリジナルを作っていたといってもよい。もちろん、聞けたものではない。ピアノバーは地方にいけばいくほど、もう、ない。

ミュージシャンの仕事がなくなって、コンビニの店員の仕事が増えた、というわけだ。

今でも、あの時、工場勤めを選択していたとしても、なんらかの創作活動は続けていたのだろうなと思う。

自分のことだから、社会人になってから、勉強が好きになり、夜間学校に通っただろうなと思う。

売れない小説家なんかを目指していただろう。

当時の彼女は1990年に別の人と結婚。

わたしたちは別れた。

時と夢のすれ違い。

それでも、いまでも、人生を試行錯誤していたあの時代のことを懐かしく思い出す。

さらに回り道をして、卒業後も、わたしは就職を選択しなかった。

子供の回り道は、親からすれば、心配で心配で仕方ないことかもしれない。

あるいは、呆れて呆れて呆れ返ることかもしれない。

でも、自由にさせてあげてほしいですね。

子供が自分の人生を自分で切り開き、親を越えていこうとする多感な時代。

見守り、励まし、応援する。それが親というものじゃないかと今、4人の息子をみていてそう感じます。

子育てとは、子供を応援すること。

ただ、応援するのみ。

わたしは結局、8年間かけて大学と大学院を修了。その間の学費や1年生から4年生までの学費を計算し、その額を倍にしてわたしが東京に就職してから分割で親に返済した。お金がなければ大学に行けないし、親も学費の負担や仕送りの負担はかなり厳しかっただろう。親になってみて、初めて親のありがたさはわかる

さて、2019年12月27日に寅さんが初上映からの名場面を提げてひさしぶりに帰ってくる。

わたしの出来の良い妹は父を二重数年ぶりの寅さんの映画に連れて行ってくれるだろう。

 

2019年12月25日子育て・教育, 教育・一般教養

Posted by 山本 潤