子育てコラム # 24 家庭教育を超えるために…地域とは何か? (父・登の生き方)by yamamoto

2022年8月19日

子育てコラムを書き続けて(第24回)

若いお父さんとお母さんの子育ての少しでも参考になればという思いで、子育てコラムを書き続けています。

我が家の4人の男子の子育ては、末っ子が中学二年になりました。妻と話しているのは、うちらの子育ても2/3は終わったね、ということ。三男の大学受験と四男の高校大学受験が予定されていて、長男と次男は就職と結婚が視野に入ってきました。

塾にいかない、習い事をさせない、子供部屋なし、勉強机もなしという環境で4人の子供達がお互いに助け合い、教えあいながら学力をつけてきた様を書いてきました。我が子がチームからレギュラーから外されたり、練習のキツさから野球をやめようとしたときの親としての経験などを書いてきました。親にとっては、学校でも部活でも我が子は楽しく健やかに過ごしてほしい。しかし、現実はそう甘くはなく、思い通りにならず、子供たちにも親たちにも様々な試練が待っています。その試練をどう共に乗り越えるか、一緒に考えたいと思い、その都度、コラムを書いてまいりました。

外野からは、一見、我が家の子育ては成功に見えます。長男が北海道大学医学部4年生で成績はトップクラス。小児外科を目指す。次男も東京大学の1年生で成績はトップクラス。弁護士を志望しています。三男も都立小松川高校でバレーボールで主役の一人で成績よく、となれば。勉強しなさいなどと言わなくとも勝手に子どもたちが自分の判断で勉強するようになっていったのですが、秘訣があるかといえば、やっぱりあるとわたしは思うのです。四男も悪ふざけが過ぎて、江戸川区立清新第一中学校からの呼び出しもかかるのですが、勉強はやれといわれなくても勝手にやっております。学力、体力ともに若い時期に鍛えることは重要なことです。しかし、子育ての失敗と成功とは、わたしの定義では、仲間を売らない、裏切らない、自分を育ててくれた地元で誰一人として見捨てない、弱いものを助け、強いものに媚び売らない。そういう男の中の男。それが育てられたら、わたしの子育ては成功。それ以外なら、ノーベル賞をとったとしても失敗であると考えます。

家庭の中だけで子育ては自己完結できない

秘訣とは上記のタイトルの通りです。うちは共働きですから妻も家で子供の面倒は見ることはできません。日に三度のメシだけを食わしている状態です。冷蔵庫に作り置きした中から、お腹が空いたときに子供はメシを食べる。家族の団欒があるかといえば、それはない。わたしも多忙、妻も多忙。多忙多忙で子育ては放置プレーになってしまいました。

保育ママさんに毎日お世話になり、小学生のころ、地域スポーツクラブの清新ハンターズや清新FCに休日は朝から晩までお世話になりました。中学生のころは、清新第一中学校の先生方、父兄の方々に大変、お世話になりました。一中の部活動はとても盛んで早朝も土曜日も日曜日も活動はありました。長男と次男は部活に加えて土日もクラブチームに所属しており、親が面倒を見るというより、地域のスポーツチームの監督とコーチと相手チームの監督やコーチたちに育てられました。地域のスポーツは、概ね、小学校や中学校の地元のグランドで行われ、学校の道具を使わせていただき、先生方にもお世話になります。親同士が助け合う環境になり、食品メーカーのおやじがたくさん差し入れを持ってきたり、建設関連のおやじが、クラブチーム専用のバラック小屋を立ててくれたり、地域の方々に支えられて子供は育ちました。中学では、朝練、夕方の練習、そして、土日の公式戦、練習試合に指導教員が付き添います。学校の先生の献身がなければ部活は成り立ちません。(本人たちがどうしてもやりたいというのでやらせているだけで、こちらはやめてもいいよ、やめてくれたら楽なんだが、と子供にこぼしておりました。子供達はどうしてもやりたいと主張しました)

自宅は長男がまだいるころは、弟たちに手品を披露したり、弟たち向けのクイズやパズルを毎回、考えてくれて、子供たちの笑が溢れる空間にしてくれます。兄弟は仲良く、喧嘩することもなく、互いを尊敬する、そう育ちました。

そのために、親は、積極的な不干渉の態度をとり続けました。子供たちを見守る。けれども口や手は出さない。危なくなったら、ギリギリのところで助けるのですが、それまではなにもしないで我慢です。兄弟どちらかの片棒をかつぐと兄弟仲が悪くなります。気をつけたことは、長男を大切にする、という方針。いつも弟の面倒で大変な長男を立てる。我が家では、長男だけは、「お兄ちゃん」と呼ばせ、他の3人は呼び捨てで呼んでいます。(大切にするということと特別扱いするということは明確に違うことです。長男を大切にしますが、デザートの葡萄の個数は兄弟で全くの平等です。年上だろうが年下だろうが、10個のチョコレートがあれば4で割り、2個のあまりに対して、希望者はじゃんけんに参戦して勝ち抜いたものだけがあまりを手にします。そこには特権はありません)

子育てというと、親が子供の面倒を見る自己完結型を考える人が多いのですが、全く逆の発想が大切なのです。意味のある集団活動やボランティア活動で頑張っていただいている教員や監督やコーチに、親として全面的な協力をして、子供の前では、活動の社会的な意義や他の親や監督や先生のよいところだけを話すようにし、先生、監督、他の親の悪いところがあっても、自分たちがこんな有様なので、言えた立場じゃないと一切、悪口は言わないように気をつけています。

リーダーをつくる リーダーへと育てる集団の力

子供達を育てるのは、周りの大人だけではないのです。同級生たちも互いに教えあう、学び合う仲間です。仲間をつくること、仲間と協力することで、人はそれぞれがリーダーとなっていきます。他人を思いやる心は、集団に属さなければ育ちません。ですから、わたしたちは、中学受験はその貴重な機会を子供から奪う子供の人生を台無しにする暴挙であるとして、中学受験は一切、しませんでした。受験が個人的なこと、その子の都合、その家の都合に過ぎない。私事というものは、人生をかける価値のないものです。リーダーにしたいならば、社会を丸ごと受け入れること。ありのままの環境を受け入れること。下町などの、互いに庶民が助け合う文化が残る地域にずっぽりとはまり、互いに助け合うことを学ばせるのです。公立中学で「悪い」子供、「乱暴な」子供、「弱い」子供、いじめっ子、いじめられっ子、落ち着きのない子供、多様な子供がいる環境はお金では買えないとても貴重な経験です。個室で一流の先生から教われば当初は伸びまずが、ノーベル賞が私立有名校はほぼ皆無であることからも推察できるように社会を動かす原動力は中高一貫校では育たないとわたしは勝手に思っています。自分だけがどんどん勉強を先に進めて、点取り合戦で有利になるのはつまらないことだし、当たり前のことだからです。実にくだらない。偏差値80でも70でも、しょーもない。価値がないことです。しょーもないを通りすぎて、早取り学習を容認する親はろくな親じゃないとわたしは毒を吐きますね。中学で高校の内容を学べば受験で有利になる。それがわかっていても、させないのがリーダーの親なんだよ。わからないだろうね。自己主義者には。(子供が好きで学問をずっと先取りするのは事情が違います。好きで数学やる、好きで英語を進んでやる、というのはよろしい)

そうではないのです。地元の人々を幸せにするためにどうすべきなのか、壁にぶつかり悩み、涙を流す、人間らしい人間を育てるべきなのです。人間の本当の力は涙です。理不尽なこの現実社会。同級生の肩に舞い降りた不幸。その理不尽さに涙する。仲間に起こる悲しい出来事を受け止め、涙する。その涙こそが、人間の力なのです。そのためには、本来の子供達の持つ地力を信じて、その地力を伸ばすことが重要です。成績をあげるためのプロの大人にこの多感な時期を任せてはダメです。これじゃー、台無し。それでエリートになっても、しょーもないことしかできません。給料の高いコンサルタントか外資系の運用会社に入って終わりですよ。社会的な意義なんか達成できない。自分の成績のためにしか頑張れない人間をつくるだけです。俺から言わせればそんなのは社会のクズだ。ハーバード出ようが東大出ようがクズでしかない。中卒だろうが、身近な人々を見捨てない、それが男というものです。安全地帯に逃げて、安心したいやつはクズだ。

子供には大人のいない世界が必要なのです。子供は子供の中だけで勝手に育つ。これが子供の地力がもっとも伸びる方法だからです。

4人の子供は公立のみ、保育ママに1年、保育園に5年、小学校で6年、地元の公立中学校で3年。その後は、自由に選ばせますがが、都立高校、国立大学という自然な進路を子供達は選ぶようになります。

いわゆる、すべての習い事、ピアノ、そろばん、習字、英会話。こうしたものは子供の将来にとってまったく必要のないものです。わたしたちのルールでは、習い事は一つまでにすること。本当に子供が自分自身から絶対にやめない、強い意思がある場合だけ例外的に習い事を認めてきました。医者になりたいと決断した長男、東大に行きたいと志願した次男は東進ハイスクールに入りましたが、成績が優秀であったため、授業料が免除されるコースもありました。やる気が本当にあれば、習い事や塾に行ってもよかろうと思います。親の都合で行かせるのは害だけ。それならば、遊ばせていた方がよいです。

リーダーにさせるには、不登校やいじめがあれば、それを我が子に解決を託すようにするのがよいのです。大変だと思うかもしれませんが、できる限りの行動をするのみです。その子の家に遊びにいくとか。電話で話をしてみるとか。そんな些細なことでも大きな一歩になります。わたしは無理強いをしませんでしたが、学校の先生は、クラスをよいクラスにしたいと思っているので、先生方がクラスに訴えてくださります。先生方もクラスリーダーを育てたいのですから。学級員や生徒会などの役割を子供が担えばその子の一生の財産になります。部活やクラブチームで、キャプテン、副キャプテンなどを経験することも子供を精神面で鍛えます。

熱血中学教師の体当たり班活動の紹介

家庭教育だけでは子供は一人前にはなりません。仲間の力がなければ、人は一人前にはなれないのです。ここに古い資料があります。

これは、名古屋の公立中学のある新人教師が、親御さんや父兄会で配ったときの資料です。

この先生は、受験で忙しい中学三年を担当。3年E組を担当しました。どの家庭も我が子の進路のことで頭がいっぱいです。ところがこの先生は、クラスで班活動を推進します。班活動というものは、クラス40人を8つに分けるのです。5人のチームをつくります。その1チーム5人制は、運動が比較的できる子、勉強が比較的できる子をそれぞれの班に満遍なく配置していました。

放課後の数時間、班活動をするのです。勉強のできる子は勉強ができない子を教える。運動ができる子はそうではない子を教える。そのような活動をしていたのですが、学校は大騒動になります。父兄、親たちがモーレツな抗議を学校にしたからです。うちの大切な子供が、他人の子供を教えさせられている、うちの子は大切な受験勉強ができなくなってしまう。時間がないのに、ひどい先生だ、というわけです。

その抗議を受けて、先生は父母会を開きました。そのときの配布資料のひとつがこのプリントでした。

熱血先生は父兄にこう訴えます。
 
「自分をかくさない」ことだけで本当にみんなの話し合いがうまくゆくわけではない。
お互いに自分たちの「生活」を知り合うこと、そしてその生活を批判し合うこと。
班でお互いに助け合い、たえず困っていることを出し合って話し合うこと。それが必要だ。
お互いにみんな一人一人の生活を隅から隅まで知り尽くして、はじめて信じ合うことができる。
信じ合えるようになってこそ、そこに本当の仲間が生まれる。
成績がよくならない子がいたら、そのままにしておけない、
間違ったことをやっている子がいたら、黙って見ておれない、
そういう仲間。
うまくいっている自分の勉強方法を人に教えずにはいられない、
いい本を見つけたら人に知らせずにはおれない。
自分にうれしいことがあったら人にもよろこんでもらわずにおれない。
そういう仲間。
そういう仲間のいる班やクラスをつくろうではないか。
 
本当の仲間とは? 

このクラス3Eは名古屋市立若水中学の第1期卒業生(1964/3卒)たちです。

このプリントは1963年の秋のものです。

このクラス担任、このプリントを書いたのは、わたしの父、山本登です。

このクラスは、いまでも毎年、同窓会を続けています。

わたしも出席したことがあります。1992年の東京若水中学同窓会です。

なぜならば、父は、わたしの名前をクラスの話し合いで決めさせたからです。

班活動でわたしの名前は決まりました。3Eの方々は、おい、潤くん、俺たちが君の名付け親なんだぞ、と会うたびにそう言うのです。

受験戦争という言葉が生まれた1960年代、班活動が批判され父兄から槍玉に上がり、生徒は気が気ではなかったのです。それでも父兄会で父が熱弁し、親たちは、先生がそこまでいうのならと、班活動は継続となりました。生徒たちは熱血先生に成績で迷惑をかけてはならないと勉強で奮起しました。

一人たりとて学力で脱落させることがないクラスをつくるんだと燃えたのです。

班活動で確かに受験勉強をする時間は削られましたが、父のクラス3年E組から愛知県立旭ヶ丘高校に5人も大量の合格者が出ました。他のクラスを圧倒したのです。卒業生の多くは名門大学へ進学。その後の日本経済の躍進を支えました。そのとき、父だけではなく、生徒たちが、班活動の成果を確信したというのです。

なぜ私たちは学ぶのか。それは身近な人々を幸せにするために学ぶわけです。涙を笑顔に変えるために学ぶ。理不尽な世の中を変革していくために学ぶ。わたしたちの体には熱い血潮が通っていて、わたしたちの思いは世代を超えて繋がっていく。

人は教えることで学ぶ。教えることで本当にわかる。逆に、わかったつもりになっているが、本当はわかっていないということが多いのです。人に教えることで、人は伸びる。リーダーとは学び続ける人であり、教え続ける人であり、身近な人々を決して、見捨てない。

昨日、3Eのクラスリーダーの一人、Mさんが名古屋の父の自宅を訪ねて、この1963年当時のプリントを持参してくれました。そのとき、いろいろな資料をいただきました。このプリントは昨日、初めて見たものです。

父は彼らに大きな影響を与えたのです。父はいいました。何もしなければ楽だったが、俺も若かったからなあと。

父は、その後の教員生活で修学旅行も生徒たちに企画させ、中学三年生の忙しい時期に、あえて、文化祭でクラス映画を作成させるなど、子供達に故意に負荷をかけました。子供達の自力を信じて。

一生の仲間を得ると、考え方は前向きになります。

困ったら、助け合えばよいではないか。能動的に解決をしていけばよいではないか。

よし、俺に任せろ。俺がなんとかしてやる。

これが本当の人間です。

わたしたち夫婦の子育ては、家庭で自己完結は絶対にできない。

地域の公立学校の中でしか、実行できない子育てなのです。

逃げてはいけない。大人も子供も。

社会の課題を解決するのは政治ではなく、自分たち一人一人の行動なのです。

P.S. 受験生の映画作り

1963年の熱血新人教師は、20年以上の月日が流れても、おもろいことをやり続けていました。父の活動はよく新聞に載りました。わたしは昨日、初めてこの記事を読みました。1985年。父は城山中学に勤務。3年9組の担任でした。受験勉強で大変な11月。文化祭でクラスが手作りの映画を上映。評判になりました。文化祭が終わっても、父兄たちの間から上映を望む声が高まり、お寺で上映されたとの記述があります。

いじめを友情でなくしちゃおう! 記事の写真は撮影風景。プロの映画のようにリアカーを移動しながらの撮影。

タイトルは「3年9組」

ある日、3年9組に一人の女の子が転校してくる。当初はみんなに溶け込めそうだったが、男の子同士の喧嘩の仲裁に入ったところ、生意気だと、いいかっこして、と白い目で見られ始める。バレーボールで仲間外れにされ、男の子が慰めてくれたが、それを目撃された結果、またいじめのタネに。ついに登校拒否を起こし、休んでしまった。数日後、先生を含め、みんなで話し合いが行われ、いじめっ子たちが少女の家に謝りに行く。

翌日、みんなは果たして少女が登校して来るのか心配でならない。校門で待ちきれなくて、みんなで少女の自宅前まで迎えに行く。カバンを下げて門から出てくる少女。みんなでワッと。少女の周りを取り囲む。

9組で文化祭で何をするのか話し合ったのは、文化祭を1ヶ月後に控えた10月中旬。「模擬店」「教室展示」。出し物のプランは二転三転したあと、ようやく8mm映画の製作の方向で落ち着いたが、テーマをめぐってまたもめ続け、10月末、「新聞やテレビで話題になり、また自分のクラスにはないが、他クラスで起こり、身近な問題になっている」いじめに決まった。議論百出のシナリオ作り。カメラは岩田勇二君が自宅から持ってきた。移動シーンは学校のリアカーを拝借した。担任の山本登先生も、カメラ店に何度も足を運び撮影技術を勉強した。いつしかみんなが引き込まれてしまった。標準語のせりふは「全部名古屋弁でいこまいか」。興に乗るにつれアドリブがどんどん入ってくる。撮影は毎日放課後に行われ、文化祭前日の11月14日に撮影終了した。当日は3回上映の予定が「これは面白い」「よかったぞ」と観客からアンコールの声が相次ぎ、プログラムを変更、6回も上映した。評判を聞いた父母たちからも再上映を求める声が起こり、(1985年12月)14日午後1時から、千種区池上町2丁目の蓮勝寺で上映することになった。

生徒たち自身の映画評論は「大人になってもう一度見てみたい」(織田由起さん)、「友情の大切さをいいたかった」(久富華子さん)、「友情があったら解決するのに、いじめられても何で自殺なんかするのかな」(森ルミさん)…。

小さな巨匠たちの感激と満足感はまだ続いている。と記事にある。

2022年8月19日子育て・教育, 教育・一般教養

Posted by 山本 潤