世の中を生き抜くための(株式投資にも通じる)考え方について by yamamoto

全体像を把握する

自分の頭で考える。案外難しいものです。新型コロナによる社会騒動が数ヶ月に及んでいます。自分の頭で考えること。具体的にはどのようなものでしょうか。株式投資家であれば当たり前にできることでも一般の方々にはなかなか難しい。ですので少し書いてみることにしました。

例えば、「コロナを患うと後遺症が残る」というコメントを都知事がしたとしましょう。仮の話です。ざっくりと言えば物事の全体像を把握しようと努めることが肝心。

後遺症とは傷の後、あるいは、ある病気に罹患し回復した後に残るもの。鞭打ち症。あるいは脊髄損傷の事故。一度骨折した方々が感じる骨折部位への違和感。色々あるでしょう。コロナの後遺症とは何か。株式投資家であれば、肺の繊維化などを調べるでしょう。そしてどの程度をどのように定義をしたらよいか考えるでしょう。インフルエンザなどウイスル性の風邪などから誘発される肺炎による死者が10万人であること。そしてそこから推定される後遺症の数々を調べるでしょう。熱中症にも後遺症があることを知るでしょう。結局、ほとんどの病気で重大な後遺症が残ることが様々な事例からわかるでしょう。自分だけは特別だ。コロナだけは特別だ。そうではないと考えるのが初動です。

さて、なぜ、この作業が必要なのでしょうか。それは事実を事実として見るのが投資家としてのあり方だからです。一般の方々はそうは思いません。「コロナという病気には後遺症が残るがインフルエンザには後遺症は残らない」。そういう初歩的で重大な勘違いをしてしまうのです。そういう方々に株式投資を私は勧めません。銀行の預金が無難です。あまりにも無知で無謀で危険な思想の持ち主(あるいは全く思想がない)だからです。

コロナに罹患するとICUに運ばれるとか、人口呼吸器を装着するとか。そう思うと、コロナが怖くなる。もちろん、コロナに限らず緊急搬送される人々の中にはICUに運ばれる人もいるでしょう。ICUの病床数を投資家ならば調べますし、その病床がどういう症状が多いのかを推定します。140万人年間でお亡くなりなる死因からいろいろな推定ができるわけです。一般の方々は、こう思うようです。「インフルエンザではICUに入らないがコロナではICUに入る。コロナは怖い」。投資家はそのような無知で無謀で危険な考えは持ちません。インフルエンザがきっかけとなって肺炎を重篤化させて死亡する人々が年間で1万人いるわけですから、当然、死亡はしなかったが危なかった人々も多数いらっしゃる。中にはICUで治療を受けた人も風邪で人工呼吸器が必要となった方も多数いらっしゃることは容易に推定できます。

一般の方は、老人や基礎疾患のある方がコロナで死ぬと思い込んでいる。そうでしょうか。100才でコロナに罹患してピンピンしている人もいる。老人や基礎疾患のある方は通常は基礎疾患やご年齢でお亡くなりになる。そのきっかけを作るのが事故などの転倒であったり風邪であったり熱中症であったりする。年齢から考えて、90才の方がこの先1年間でお亡くなりになる確率は1-2割はある。80才の方は1割ある。そのベースがまずある。その1割が様々な出来事によって誘発されているわけです。その出来事のひとつがコロナであるに過ぎない。140万人の年間の死者のほとんどは70才以上です。そして老衰や癌や心筋梗塞や肺炎などでお亡くなりになる。その肺炎を誘発するのが気管支を悪くする風邪やインフルがメインでほんの一部がコロナである。

まずは事象の全体像を把握することから始めると株式投資につながる観察ができるでしょう。

確率とそのインパクトを計算する

一般の方は、宝くじの一等に当たる確率が1億分の10だとしても、3億円が当たるとすれば、その3億円というインパクトが大きくて30円の価値に対して過剰に支払うことを決断します。つまりくじが割高の100円であっても買うことになります。このようなことが生じるのは、自分だけは例外的に優れている。運の面でと考えているのでしょう。

万が一にも起こらないことを基準にして生活を組み立てると「特別な夏」と「特別な年」が毎年繰り返されることになります。マスメディアが算数が苦手なのことはわかりますが、一般の方も割り算とは疎遠なのでしょう。人口1億人の国で年間2000人が死ぬという特殊な死因を考えるとき、国民がこの病気で死ぬ確率はいくらでしょうか。万が一にもならないのです。一方で死んでしまう事象は国民全体で1%。コロナでお亡くなりになった方にご冥福を云々という謳い文句を使っている最中にその数百倍の死者が他の死因でお亡くなりになっています。そのバランスの悪さに気がつかないとしたら重大な思考の欠陥です。つまり140万人のうちの139万8000人の死者たちのご冥福を謳い文句にしてご挨拶をして欲しいと考えるのが普通のバランスではないでしょうか。確率を計算し、不要な心配しないこと。自分の頭で考え、自分の判断で行動すること。それが投資家です。一方で、人の目を気にして近所の目を気にして帰省もしなければ外食もしない。マスクを付けっぱなしにして外を歩くというのは思考が停止している人々です。一般の方々のアンケートや世論調査は投資家は全く知る必要もありません。右へ倣えで何も考えていない人の意見はゼロ(=無価値)です。都知事と国とが言っていることが違うのでどちらに従ったらいいのかなどと発言をしている人々は頭のない死体とみなされます。

自分の頭で考えて行動してみましょう

自分の頭で考え、行動する。これは民主主義国家の国民の義務です。民主主義とは各自が考えて議論することです。そして議論に当たっては全体像を把握して簡単な計算をしてから議論をしなければ共通の土台に立てません。行政であれば説明責任。コロナの件では、指定感染症の2類に指定されたことが様々な社会問題を生んでいるわけですから、グレイドダウンするのは当然のことです。公共の福祉の観点から誰がどのように議論しても結論は同じになるはずです。このようなことを申し上げると、「山本さんは、コロナはただの風邪と思っているのでしょう?」と言われることが多々あります。これが一般の方々の特徴です。「指定感染症2類に値しない病気」であることと「コロナがただ風邪」であることは全く違う主張です。コロナに後遺症があること知っているの?とか。コロナで世界中で70万人が死んでいるのですよとか、極め付けが「山本さん、テレビちゃんとみているの?」などと言われることがあります。参っちゃうな。

人の主張を聞く場合には、その人のステイトメントをしっかりと把握して理解して欲しいと思います。コロナはただの風邪であると主張している人がいるとしましょう。その主張の風邪の定義とは何か。主張している人に風邪の定義聞いてください。その方が、RNA型のコロナウイルスから引き起こされる疾患という意味で風邪という言葉を用いているならば、そのステイトメントには何ら意味があるわけではなく政治的なものでもありません。そりゃそうだということになりますね。そういう意味ではなく、病気としての症状が一緒だと主張していたとしても、発熱の具合とか具体的にどこがどう同じかを確認することは無駄にはならないでしょう。似ているところの方が多く、似ていないところが少ないとすれば風邪の一種となり、厚生省が主張している通りにコロナは風邪の一種となります。

わからないから何もしない。わからないから他人に従う。これでは国家が滅亡してしまいます。テレビではなく論文や教科書を読んで議論する国になればいいのになあと思って私は普段、活動をしております。

歩きスマホではなく歩き教科書を せめて19世紀の人類に追いつこう

それぞれが多忙な日々です。なかなか仕事が忙しい。その中で自分の頭で考える訓練はやはり必要でしょう。人というものは易きに流され安いものです。私などは、スマホに一秒たりとも自分の大切な時間を奪われないように気を付けております。外出するときになるべくスマホを携帯しない。(解約しない理由は取材で使うからです)

歩いている時間は有効に。そこで教科書を歩きながら読んでおります。これが非常に訓練になります。夜が難しいのが課題です。信号なども歩き教科書で渡っております。私などはコロナで死ぬよりも交通事故で死ぬ確率が高いのですが、あえて、そのような条件を設定することで日々を楽しんでおります。

人生とは、やらないことを決める戦いです。やらなくてよいことはこのブログを含めてブログを読むのを止めること。書くならよし。FBを止めること。イベントを自分で主催して告知するならよし。Twitterは止めること。イベントの告知は友達に依頼すればよし。だからTwitterのアカウントは持ちません。新聞は止めること。記事が乱雑です。不正確です。テレビはみないこと。それだけで19世紀ぐらいの人間にまでは進化できるでしょう。20世紀の人類に我々が追いつくためには、隙間時間を素読や計算や読んでもわからない教科書を何度も読むことでしょう。できれば論文を書く側になる。勉強会などに参加して勉強をする。私も20年間やっておりますが、社会人として大学に通うのもオススメです。世代を超えて一緒に若い人と勉強するのは楽しいものです。