松平康隆さんの命がけの挑戦 -ミュンヘン五輪の男子バレーボール- 子育てコラム#27
今回は私が最も尊敬する人生の師、松平康隆さんのことをどうしても書きたくなりました。。。子育てコラム第27回です。
中途半端なら、割りに合わない
もう、こういう考えの人にはなかなか会えなくなりました。
長身が圧倒的に有利になるバレーボール。日本人には不利なスポーツです。男子バレーボールはそのハンディを乗り越えてかつて世界一になったことがあります。1972年のミュンヘン五輪です。1964年の東京五輪後に男子バレーボールの全日本監督となった松平康隆さん(1930-2011)が8年計画で成した奇跡です。松平さんは言います。「人生の大事に時期にバレーボールをやってきた。中途半端な気持ちでバレーボールに打ち込んだら、私は割りに合わない。死ぬときに、ああ、おれは損をした、ばかを見た、という気持ちになるだろう」
彼はミュンヘンを前にして「負けてたまるか!」(1972/3/5 柴田書店)を執筆しました。そこから抜粋します。
いま、あなたも、私も、この死に方だったらおれはなにもいうことはない、といって死ねるものがあるかと問いたい。われわれは、それを求めて、いろいろ模索しているわけなのだ。ー あと50年人生がある。ところが私はそうは思わない。正直な話、あしたの命はわからない。事故のようなアクシデントだけではない。いろいろな場面がある。ふだんは、あしたがあると思っているから、凡々と生きていられるだけのはなしだ。もしあしたがないと決まったら、今日一日全力投球するより方法はない。ーあと50年人生があるといったって、ほんとうにあるかどうかはわからないのだ。あしたがなかった、起きてみたら起きられなかった、そのまま急死した、それでもいいじゃないか、という毎日を送りたいのだ。
松平さんは東京五輪で市川監督の記録映画の撮影に駆り出されて協力。しかし、男子バレーは記録に一コマも残らなかったのです。東洋の魔女の女子バレーが金メダルをとり、彼女たちの活躍がドキュメントとして撮られたというのに。男子バレーも銅メダルの快挙であったのですが。それは大きな屈辱でした。スポーツは勝つだけでダメだ。みんなから応援される選手でなければいけない。時代の求める理想を具現化するのだと。
そこから彼がどれだけ努力したかは「負けてたまるか!」等の著作集を読んでもらいたいのです。私はお正月、彼の著作を3つ読み、勇気とガッツをもらいました。私も命がけで仕事を頑張ろうと。彼はいうのです。五輪で金メダルというのは大変な名誉だ。お金のためにやるわけではない。名誉のためだと。名誉のために、命をかけるという松平さんが心底いい男に思えてならない。正月には4人の子供達に、彼の話をしました。甘ったれるんじゃないぞ。学生の仕事は勉強。何事も生きるか死ぬかでやらなければ割りに合わないと。
理想の金メダルリストとは?
金メダルをとると決めた松平さんは、そもそも金メダルをとるだけではなく、金メダリストたちのその後の人生がある。それを彼らにどう生き抜いて欲しいか。そういう視点で冒頭の言葉、「後50年あると思うな」を書いたのです。選手が金メダルを取る。まだ50年の人生が残っている。その後、どう生きるかだと。彼は考えました。スポーツだけではなく、人間として超一流でなければならないのではないかと。勝って大騒ぎするような幼稚な選手はいらない。勝っても負けても、高い次元で精神が安定している人間に育てたいと。
松平さんは、上手い選手を集めて、そこから選ぶということはしませんでした。自らが全国を周り、身長190センチを超える有望な高校生を発掘。そして、8年計画で育てることにしたのです。大古さん、横田さん、森田さんのビッグ3を18歳の時から鍛えました。これはミュンヘンでの金メダルを逆算したからです。監督コーチと選手たちが運命共同体となるには、本当の信頼関係や尊敬がなければならない。ところが、信頼関係や尊敬というものは組織が与えるものではない。当事者同士が互いに作っていかなければならないと考えたのです。自分が惚れ込み、育てた選手でなければ、とてもそんな気持ちにならない。上手い選手を集めて、そこから選ぶというわけにはいかなかったのです。
8年後のライバル国はどの国になるのか。ソ連、チェコ、東ドイツ、ルーマニア。これらの国の言語を勉強し、情報を集めました。監督の地位、すぐに首になる監督かどうか。歴史、国民性、性格など。ミュンヘンの決勝の東ドイツのエンター監督についての性格分析は見事でした。競争には相手があります。その相手を裸にするため、政治家も使いました。当時、国交がなかった東ドイツを日本に呼び、データを集めました。国交がない国を招待することは大変困難なことでした。
選手にも勉強させました。松平さんは言います。ダービー、天皇賞で強い馬がいたとしても、あの馬強い、速い、すごいという人はいても、尊敬するという人はいないだろうと。それではいけない。金メダリストは人間も超一流でなければならない。選手には午前中に英語の勉強をさせました。午後は歴史や外交問題を勉強。選手たちは、各国の政治体制や問題点や歴史などを一人で3時間も発表しなければならなかったのです。バレーボールの練習だけでは人間は作れないと松平さんは述べています。一年365日、毎日毎日の24時間の過ごし方にかかっているのだと。24時間全てが人間形成の場であると。
さらに、小さな選手が多い日本で190を超える大きな選手を初めて育ているのですから、教科書がありません。190を超える大男が俊敏に動けるようにアクロバット的な運動を取り入れ、専属のトレーナーをつけたのです。全員が宙返りや逆立ち9メートル歩きなどをマスター。練習は忍者教室のようなものになりました。
お金は松平さんがスポンサーを探すところから始めました。試合を満員にすることでチケット収入から遠征費や合宿費を捻出しました。彼はお金集めから、テレビ解説、レギュラーテレビ番組まで作り、男子バレーを人気スポーツにしたのです。そのためには、心を込めたスパイクを打つことを選手に求めました。応援してくれる人を一人でも多く作るろうとしたのです。
金メダルを取るだけではダメだと。その名誉にふさわしい、よい人間にならなければならないのだと。お前たちは何のために生きるのか。その答えが、冒頭の話です。中途半端では割りに合わない。死ぬときに、ああ、おれは、損をしたと思うはずだと。
理想の男とは?
1972年といえば、世の中、GOGOブーム。長髪の男子がフォークソングなどを歌っていた時代です。あれは男か女かわからない男が大勢いた。だが、それが女性から見て、理想の男ではないということが松平さんにはわかっていたのです。その証拠に男子バレーが人気化し、ブームになった。ちょうど、2019年の日本ラグビーのように。
松平さんは著書で述べています。
世間が何を求めているかといえば、たとえば、男子バレーの大古らの姿だ。男くささと同時に、スポーツをやっているときの必死な姿だ。試合が終わったらジェントルマン、試合になったらそれこそ動物のように必死で戦う。そういうような切り替えができる、節度のある人間。それと同時に、なにか猛烈に、これがおれの生きがいだと、使命感に燃えている、一つの生きがいを完全に自分のものにしている18歳から22歳の青年というものを、世の中の男も女も求めているということに気がつくののだ
あなたたちの同じ世代の人間がこうやっているのだ。だからあなたたちが求めているものは、努力すればあなたたち自身でもやれるのだ、というものを目の前に、しっかりと作ってあげること。これが五輪の目的だと。
スパイクとは人の心を打つこと
松平さんは選手たちに、こう言いふくめました。心を打たない試合をした後です。
どちらかが勝って、どちらかが負ける。それは当たり前のことだ。しかし、つまらないゲームをやった場合ーつまらないという意味は試合がせったかせらないかということではないー心を打つものがなかったという試合をやった場合には、私は選手全部を集めてこう話した。「君たちは日本の男子バレー界のために余計な試合をしてくれた。試合してもらわないほうがましだった。君たちのように人の心をとらえられないような選手は、男子バレーの選手として人を集めてやるような試合に出る資格はないと思う。自分たちでどこか好きなコートへ行って、人のいないところ、山奥でやってもらいたい」
日本リーグで戦う一線級の選手であれば男子バレーを背負うという使命を持ってやってくれということでした。
訓練や練習とは
松平さんは、練習を単なる反復や基礎の繰り返しとはみなしませんでした。練習時間の10-30%を新しい技の開発に取り組ませました。こうして世界で初めて生まれたのが、フライングレシーブ(肋骨がおれてしまう)、一人時間差、BやCクイックなどの速攻でした。
松平さんはこう述べています。
たとえば、おれは上手いんだ、おれより上手いやつはいないんだと思う選手がいたら、全日本から私は外す。おれはまだこれが足りない、あれが足りない、世界一といわれているけれども、まだパーフェクトじゃないのだと思って、新しいものを毎年作ろうとする意欲と作り得る能力、この2つを持たなければ全日本代表選手の資格はない。そこに男子バレーの新しい道がある。全日本男子バレーのファンは、選手たちが新しいものを生もうと、ひたむきに打ち込んでいる姿勢に共感を持ってくれている。そういうほれ方をするファンだったら何万人でもファンになってもらいたい。森田の笑い顔が素敵だとか、あの格好がいいとか、あの浅黒い色がたまらない、などというだけのファンはいらない。まともに受け止めてくれるファンになるか、まともな受け止め方ができないファンになってしまうかは、こちら側の問題でもある。
松平さんは、逆境を力に変えた。逆境が人を育ているという。どんな天才も所詮は人間。人間というものは、どんな偉そうなことを言っても、試行錯誤の動物に過ぎないと。死ぬまで迷うのが人生だと。だからこそ、私たちは、少しでも信じあえるものを持とうと必死にあがいているのではないかと。
一人一人。仕事や勉強を必死になってあがくこと。試行錯誤の繰り返し、新しいものを創造していこう。
松平さんは、中学生や高校生にはこう述べている。
中高生へ
たかが中学や高校の勉強だ。やってできないことはない。学生の仕事は勉強だ。だから、ガリ勉でいい。忙しい、他にやりたいことがあるなどと、甘ったれるなよと。
三男坊
我が家の子育て。三男坊は小松川高校1年生でバレーボール部です。ちょうど、フライングレシーブを練習しています。皮向け、打撲し、血だらけになりました。しかし、それは上手くなるためには当たり前のことです。バレーをして、坊主は良い方向に変わったと思います。自分から努力する青年になったからです。あれほど勉強しなかった中学生時代とは違ってきました。今年の正月は、マンションの階段を8階まで40も往復した。馬のように食べ、体重を増やしている。身長は180を超えてきた。センタープレイヤーとして試合に出ている。松平さんの書物は私が読んだあとは、すぐに三男坊に渡る。松平さんのスピリットを受けて燃えて燃えて燃えて欲しい。勉強もスポーツも手を抜かず、青春を完全燃焼して、2月の大会でリミッターを吹っ切って欲しい!! 親としては応援あるのみ!
P.S.
私は名古屋市立守山中学校の時に、朝の新聞配達をしていました。それで私は朝が普通の中学生より早かったのです。その代わり、夜は8時に寝ていました。夜明け前の暗い冬の朝は、少し気分が沈みました。松平さんは早朝のラジオ番組のジョッキーをしていたのです。語りかけるような名調子でしたが、励ましてくれるわけです。松平さんのラジオ番組を聞いて中学生の時の私は元気をもらったのものです。徹夜で働いているトラックドライバーのハガキを読んだりして、励ましたりしていました。流れる音楽は元気がでるマーチングソングでした。ありがたかったです。今、彼の書物を読む時、いつの時代にも松平さんのような男の中の男がいるものだという思いです。私たちは、新しい理論を発見していくだろうし、新しい技を開発していくだろう。それだけではなく、毎日、気合いを入れて、明日、死んでも悔いはないと思えるように今を全力で生きよう。ありがとう! 松平監督と全日本男子バレーボールチーム!
wikipediaより
来歴[編集]
1930年(昭和5年)1月22日、東京府東京市荏原区(現・東京都品川区)[1]出身。松平は旧加賀藩士で家老職をつとめ、幕末には数年間小松城代をつとめた松平大弐家の血を引く家系であった。
東京府立第二十二中学校から東京都立城南高等学校(現・東京都立六本木高等学校)に改称した時の城南一期生で、この時の同級生であり親交の深かった友人が大平透(声優・ナレーター)であった。
1947年、慶應義塾大学法学部政治学科に入学する。バレーボール部の主将として、1951年には全日本9人制選手権大会で優勝、天皇杯を獲得した(学生チームとして戦後初)[1]。
1952年、慶大を卒業[2](学位は法学士)し、日本鋼管(現・JFEホールディングス)に入社、選手や監督兼主将として活躍する(ポジションは守備の要・バックセンター[3])。1954年には、9人制の選手として全日本入りした[1]。
1961年、現役を引退し、6人制バレーを学ぶためにソ連に留学する(日ソ「スポーツ交流協定」の第1号として文部省からの派遣)[1]。帰国後、全日本男子チームのコーチを経て、1965年に同監督に就任した。
1968年の第19回夏季オリンピックメキシコ大会で銀メダル、1972年の第20回夏季オリンピックミュンヘン大会では準決勝での大逆転を経て金メダルへと導いた[4]。監督退任後もしばらくは日本鋼管に籍を置いたまま、協会の役職を兼務していた。
1979年、日本バレーボール協会専務理事に就任し、1980年モスクワオリンピック世界最終予選では総監督を務めた。同年、アジアバレーボール連盟会長に就任。
1989年 – 1995年12月まで、日本バレーボール協会会長を務める。会長としては将来のプロ化を前提としたVリーグの発足や国際大会の日本での固定開催の実現、ジャニーズ事務所のアイドルに大会のイメージキャラクターを務めさせるなど若者層への普及にも力を入れた。会長退任後は解説者を務め、鬼監督で鳴らした往年と異なり、端正な風貌とソフトな語り口で人気を集めた。
1998年には、日本人で初めてバレーボール殿堂入りを果たした。その後、日本オリンピック委員会(JOC)副会長兼理事や国際バレーボール連盟(FIVB)第一副会長等を務め、JOCでは会長候補でもあった。
全日本監督退任後、日本協会の職務と並行してブラジルやアルゼンチンなど南米諸国に赴いて現地でバレーボールの指導を行ったが、皮肉にも日本人よりも体格や瞬発力に勝る南米諸国が技術を吸収し国際舞台に台頭してくると、日本チームが国際舞台で苦戦を強いられ国際大会などで勝てなくなって行くことに繋がった。
2001年、日本バレーボール協会に復帰し、名誉会長に就任[3]、2011年2月、名誉顧問に就任した。
2011年12月31日午後0時21分、肺気腫のため都内の病院にて死去[5][6]。81歳没。没後に正五位に叙された[7]。
エピソード[編集]
- 東京五輪では全日本のコーチとして出場し銅メダルを獲得した。大会終了後選手村でパジャマ姿で顔を洗っていると、正装した大松博文と出会った。「大松さん、いい格好しちゃってどこへ行くの」と聞いたら「祝賀会だ」と答えたので、女子チームの祝賀会だと思い「おめでとうございます」といって送り出した。それから1時間ほどして日本バレーボール協会の当時の西川政一会長から電話があり「松平君、君ね、祝勝会をボイコットするなんて、ひがむのもいいかげんにしろ。祝勝会に男子バレーが来ないんで、みんなカンカンに怒ってるんだ」と怒られた。その後、事務方の手違いで本来、協会主催の祝賀会に男子も呼ぶ予定であったが、男子には連絡が行っていなかったことが分かった[8]。
- 1966年、当時小学校5年生だった一人息子を不慮の事故で亡くした。日本鋼管の市場調査課の係長で36歳の働き盛りだった松平は、それまで仕事とバレーボールを半々でやってきたが、ベッドに横たわる息子を見て「いま元気でもあしたはどうなっているか分からない。それなら自分の人生が満足だったと思えるものにしたい。」とバレーに賭ける決意をした[9]。五輪ではそのことについて一言も報道陣や選手に触れさせず、優勝後に選手から触れられると号泣した。
- 2000年頃に慢性閉塞性肺疾患(COPD)と診断されたものの、肺機能回復に成功[10]。亡くなる3年前には肺に腫瘍が見つかったが、酸素吸入器を着用しながら、2011年8月のワールドグランプリなど、全日本の試合会場にも足を運んでいた[11]。12月28日に肺炎で入院、容体が急変し31日に死去した。松平の遺志による「正月の忙しい時」という周囲への配慮から、近親者のみの葬儀・告別式となった。訃報が日本バレーボール協会やミュンヘン五輪メンバーに届いたのも、年明け1月4日の夜だった[6]。
- 前述のように当初はVリーグはプロ化を目標として立ち上げたものであったが企業の反対等で頓挫し、自らも晩年は松下電器バレーボール部の記念冊子の中で「プロスポーツの選手は目先の金にとらわれすぎている。我々の頃は金のためではなく国のためにやろうという気があった。」とアマチュアリズムを賛美するコメントを寄せている。
アイデア・プロデュース[編集]
- 練習内容
- 現在、世界各国で使われている速攻、移動、時間差などといったバレーボールの攻撃システムの基礎を築き上げ、バレーボールの近代化と普及発展にも貢献した。
- ミュンヘン五輪の全日本男子チームに対して、倒立(逆立ち)で9メートル以上歩けるようにさせる練習をした。松平は「逆立ちで9メートル以上歩けるようにならなければ、オリンピックに行かせない。」と言ったが、大古はなかなかできず、苦労した。トレーナーの斎藤勝らと共に編み出した練習方法の数々[12]を含めて「松平サーカス」とも呼ばれた[13]。
- 全日本男子代表チームを鍛えるために、海外遠征も積極的に行った。1968年8月20日に起きたワルシャワ条約機構軍のチェコスロバキア侵攻の際には、全日本男子代表チームがチェコスロバキア遠征中であり、宿泊先のプラハ市内のホテルからソビエト連邦の戦車が走る場面を目撃したことを後年、テレビ番組で語っている。
- 1970年代当時、スウェーデンやフィンランド等、当時の日本とレベルが下がる北欧諸国に遠征したが、その目的は『“鉄のカーテン”に阻まれ、情報を容易に入手出来なかった最大のライバル国・ソビエト連邦代表の動向を探るためであった』ことを松平は明かしている[14]。
- 1971年には、対戦経験のなかったバレーボール東ドイツ代表を日本へ招聘して親善試合をするために、東ドイツ工芸品展覧会とのタイアップを企画[15]。その当時、日本と東ドイツとの間には国交がなかったことから佐藤榮作政権で当時外務大臣を務めていた愛知揆一に直談判して、東ドイツ代表チーム(DDR・ライプツィヒ選抜軍)の来日を実現させた[16][17]。これがきっかけとなり、日本と東ドイツとの間に国交が樹立されることともなった。
- PR活動
- 松平は、チームが勝つだけでは自己満足で意味がないと考え共感を持ってくれる人を社会に増やすことにも重きを置き、PR活動にも尽力した[18]。その行動から「スポーツ界のアイディアマン」とも呼ばれた[19]。
- ミュンヘン五輪の全日本男子チームを盛り上げるために『アニメドキュメント ミュンヘンへの道』という男子バレー選手が登場するテレビ番組を企画し、監修を行った[20]。
- また、松平は男子バレーボールの人気獲得のために10-20代の女性をターゲットとした。背が高くスタイルの良いバレー選手は女性の関心を集めるだろうと考え、少女雑誌を中心に男子バレーを紹介した。やがて試合会場は女性達の声援で満たされるようになった。バレーのファンを増やすために、積極的にバレーの練習を一般公開した。
- 話題づくりのために、選手に対して以下のようなユニークなキャッチフレーズもつけた。
- 中村祐造 – 「ガッツ祐造,チームを世界一に引っ張っていく機関車,率先垂範のキャプテン」
- 猫田勝敏 – 「世界一のセッター,日本オーケストラの指揮者」
- 森田淳悟 – 「フジヤマ・ブロック」
- 大古誠司 – 「世界の大砲」(「世界一の大砲」)
- 選手のキャッチフレーズ以外の命名もあった。
- その他
ソフトバレーボールの小学校教材化の実現推進や、小学生バレーボールにおける「フリーポジション制」という特別ルール(ライオンカップ第12回大会から導入)の提唱を行った[24]。
リベロ制度も、松平とルーベン・アコスタが考案した制度だという[25]。
また、自らの名前が冠になった(唯一の)大会「松平CUP中学選抜バレーボール大会」が、毎年開催されている(主催:松平CUP実行委員会、後援:学校法人駿台学園ほか)[26]。
賞詞[編集]
勲章等[編集]
表彰等[編集]
- 1982年 - 国際バレーボール連盟 功労賞
- 1995年 - 国際オリンピック委員会(IOC)オリンピックオーダー 銀賞
- 1998年 - バレーボール殿堂入り
- 1998年 - 国際バレーボール連盟 特別功労賞
- 1999年 - 世界有識者スポーツ人の殿堂入り
- 1999年 - 国際バレーボール連盟 グランド・クロス(最高勲章)
- 2000年 - 国際バレーボール連盟 20世紀男子ベストコーチ賞
- 2003年 - アメリカマサチューセッツ州ホリヨーク市名誉市民
- 2007年 - 東京都名誉都民
出演番組[編集]
- 『世界のマーチ』 (行進曲を取り上げたラジオ番組) - ディスクジョッキーとして出演(TBSラジオ、1970年代、スポンサーが日本鋼管だった。但し後期はNKKが降板し別スポンサー)。
- 『FNNニュースレポート6:00』 (夕方の大型報道番組) - 初代スポーツキャスターを務めた(フジテレビ、1978年から2年間)。
- 『600 こちら情報部』 - 金曜日放送の「なんでも相談」にて、スポーツに関する質問の解説を担当(NHK)。
- 解説者時代には、日本バレーボールリーグやワールドカップ、春の高校バレーなどの試合中継で解説を務めていたが、公職を退いた晩年は日本テレビ系列で放送されるグラチャンバレー(五輪年の翌年秋)の日本戦のみに留まっていた。
- その他
- 『ヒーローが見た夢』#12[27]・#78[28](日本テレビ、2008年6月20日・2009年9月25日)
- 『堂々現役~巨匠からのメッセージ』[29](BSフジ、2008年7月20日 ※追悼特別番組として2012年1月7日に再放送)
亡くなる2011年まで、フジテレビの番組審議委員会の副委員長も務めていた[30]。
著書[編集]
- 『負けてたまるか』(1972年、柴田書店)
- 『ミュンヘンの12人 – 日本男子バレー・勝利への記録』(1972年、柴田書店)
- 『わが愛と非情』(1972年、講談社)
- 『バレーボールのコーチング』(1974年、大修館書店)
- 『負け犬になるな – 私をささえた忘れ得ぬ言葉』(1977年、PHP研究所)
- 『ザ・バレーボール – コートからの熱いメッセージ』(1984年、新潮社)
- 『ぼくのウルトラかあさん (のびのび人生論)』(1989年、ポプラ社)
脚注[編集]
- ^ a b c d 平成十九年東京都議会会議録第十二号
- ^ 慶応義塾体育会バレーボール部
- ^ a b バレー界の巨人・松平康隆さん死去…五輪男子「ミュンヘンの奇跡」で金に導く – スポーツ報知、2012年1月6日
- ^ 【あの時・男子バレーの奇跡】(1)「あと2時間コートに立っていろ」 Archived 2016年7月12日, at the Wayback Machine. – あの時:スポーツ報知、2016年6月7日
- ^ a b 日本バレーボール協会名誉顧問 松平康隆さん(81歳)逝去 – 日本バレーボール協会、2012年1月5日
- ^ a b “時間差攻撃」松平康隆元代表監督死去”. 日刊スポーツ. (2012年1月6日) 2016年7月6日閲覧。
- ^ “故松平康隆氏への叙位伝達について” (プレスリリース), 日本体育協会, (2012年2月22日) 2016年7月6日閲覧。
- ^ 【あの時・男子バレーの奇跡】(2)「南のプライドをたたきつぶせ」 あの時:スポーツ報知、2016年6月7日
- ^ 小泉志津男『日本バレーボール五輪秘話、ポスト東洋の魔女の激闘』 ベースボール・マガジン社、1991年
- ^ 「きょうの健康」 病を越えて 名監督の息切れ奮闘記 日本バレーボール協会名誉会長・松平康隆 – NHKアーカイブス保存番組 2005年8月4日放送
- ^ 五輪バレー「金」監督、松平康隆さん死去 – エキサイトニュース(サンケイスポーツ)、2012年1月6日
- ^ ミュンヘン 男子バレーボール『金色の夢舞台』への道のり ~長田渚左 – 心に残るオリンピックシーン – JOC
- ^ 【あの時・男子バレーの奇跡】(4)新技術続々!練習は松平サーカス – あの時:スポーツ報知、2016年6月7日
- ^ 『驚きももの木20世紀』「ミュンヘンへの道… 男子バレー秘話」朝日放送 1994年2月22日放送
- ^ 【あの時・男子バレーの奇跡】(5終)非常識の延長線上にしか世界一はない – あの時:スポーツ報知、2016年6月7日
- ^ 【男子バレー】男子ボールゲームで唯一の金メダルを獲った男、松平康隆の生涯 4 – 集英社スポルティーバ公式サイト
- ^ 松平康隆さん死去:母親譲りの負けじ魂 – 毎日新聞、2012年1月5日
- ^ 連載特集『人生で大切なことは、スポーツが教えてくれた』vol.7 松平康隆 – オリコンランキング 3PAGE
- ^ 連載特集『人生で大切なことは、スポーツが教えてくれた』vol.7 松平康隆 – オリコンランキング 4PAGE
- ^ 【あの時・男子バレーの奇跡】(3)血だらけレシーブ!!超スポ根番組 – あの時:スポーツ報知、2016年6月7日
- ^ 「ミラクル東亜」連覇へ好発進/春高バレー – SANSPO.COM 2012年1月7日
- ^ 【松平康隆氏死去】「ミュンヘン」の教え子ら惜しむ声 – MSN産経ニュース、2012年1月5日
- ^ 最後の、スーパーエース (前編)
- ^ 小学生バレーボール・ルールの変遷 Archived 2014年3月3日, at the Wayback Machine. – 日本小学生バレーボール連盟
- ^ その1 今だから語るリベロ制採用の真相 WORLDCUP ’99 CXオフィシャルサイト
- ^ スポーツ報知、2012年1月13日付5面
- ^ ヒーローが見た夢#12 – 日本テレビ
- ^ ヒーローが見た夢#78 – 日本テレビ
- ^ 松平康隆さん追悼特別番組『堂々現役~巨匠からのメッセージ』 – BSフジ
- ^ 番組審議会 – フジテレビ
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- バレーボール・松平康隆「負けてたまるか」 – 日本トップリーグ連携機構
- 連載特集『人生で大切なことは、スポーツが教えてくれた』vol.7 松平康隆 – オリコンランキング
- Vリーグ創設と松平康隆が最後に見た夢 – web Sportiva
- 松平さんお別れ会2~3月開催へ ファン参列できる形に – Sponichi Annex、2012年1月7日
- 「故松平康隆氏お別れの会」のご案内 – 日本バレーボール協会 NEWS 2012年1月18日
- 松平康隆 – NHK人物録
ディスカッション
コメント一覧
素敵なコラムを有り難うございました。私も松平さんには多大に影響されましたので、感激しながら読ませていただきました。彼の考え方で、特に衝撃的だったのは「日常識を常識にする」ことの意味で、それを具体的に解説してくれた講演を一部を今でも鮮明に覚えています。「…素晴らしい選手でした、木村憲治。体は小さい体です。1メートル87センチですから小さいですね。」そこで会場が「えーっ」とどよめくと、松平さんはすまして続けました。「ほんとですよ。1メートル87センチはチビなんです。それをチビだと言い切らないと、そして当人が本心からそう思いこまないと、世界制覇をする男子バレーは出来ないんです。」ラジオでこれを聞いていた私はそれまで味わったことのない解放感に包まれました。常識に囚われなくていいんだ。独自の考え方をしていいんだ、と。それが日本をいずれ飛び出すきっかけになったとさえ思います。私も「世界のマーチ」を聞いていました。山本さんが元気をもらったように、私も松平さんに勇気をもらいました。それから長い年月が過ぎましたが、今でも松平康隆の考え方は私の仕事や子育てに役にやっています。
コメントをいただきありがとうございます。素敵なエピソードをご紹介いただきありがとうございます。いよいよ2021年。東京五輪の年になりました。選手たちにとって悔いのない大会になるように祈っております。