子育てコラム#10 挫折を乗り越えることはできなかったが特別な人には出会うことはできた

2019年12月18日

わたしにとっての最高の上司であったNさんのこと(子育てコラム第10回)

◆わたしは挫折を乗り越えられることはできませでした

自分から選んだ夢だった。退路を絶ったつもりだった。毎日必死に努力した。でも、ライバルたちの圧倒的な力量に気落ちしてしまった。夢を自ら諦めてしまった。

 

昨年の秋、第二の故郷の松江に立ち寄りました。 わたしが、東京へ出てきて27年。 この間、いろいろな人に出会い、旧和光証券(現在のみずほ証券)や クレイ フィンレイ(Clay Finlay Inc)では、優れた上司・先輩に恵まれました。 しかし、わたしが一番、一緒に働きたかった人、そして恩義を忘れてはならない人は、島根県松江市に住んでいるのです。

N学習塾は、創業35年目。

塾代表で大学の4年先輩であるNさんと、1986年3月に松江のフェブリエという喫茶店で初めて出会いました。

わたしはそのころ、ジャズ・ピアニストになるという夢を諦めた直後で、失意の中にいました。 1986年当時、島根大学の4年生でしたが、単位は、ほとんどとっていませんでした。 ジャズピアニストを目指して大学を二年間、自主休学していたためです。

わたしが戻ってきてすぐに、一緒に入学した同級生たちは、しっかり就職し、きちんと卒業していきました。 わたしは同級生たちのことを軽蔑していました。 大学一年生のときは夢を語っていたくせに、大学四年になったら、急に、親の世話があるから地元に残るだの、そんな話ばかりで、くだらないと思ってしたのです。 自然と同級生とは疎遠になってしまいました。

親にも迷惑をかけていたので、仕送りはありません。

だから、毎日働いていました。 N塾で週に7日、アルバイトをさせていただきました。 (十分な生徒もいないのに・・・)

そんな私も1988年、大学6年生のときに、 ようやく卒業を迎えることができました。 ただし、卒業しても就職はしませんでした。 松江に残る決断をしたからです。 Nさんともっと一緒に仕事がしたかったからです。

大学院に進学すれば、引き続きN塾でバイトができるという理由で、就職せずに、大学院に進学したのです。 結局、大学院修了まで4年間、Nさんと一緒に仕事をしました。

数年前のことです。わたしは岡山から松江にNさんに会うために向かいました。 特急やくも19号の中で、忘れてしまったNさんとの出来事をひとつ、ふたつと思いだしていました。 伯耆大山駅の辺りで、やくも号から沈む夕日をみながら、 なぜ、わたしはNさんに会いたいのかを自問していました。 松江に着くと、Nさんは、相変わらず不登校や高校中退した若者を引き受けていました。

◆ただの一回も叱られることなく・・・

わたしが島根大学を卒業できたのは、 Nさんが、塾で住み込みを許してくれたからでした。 家賃も食費もタダにしてくれました。 そんな親切な先輩、あまりいませんよ。 わたしは恵まれていました。

経済援助以外に、本当に多くのことを教えてもらいました。

素潜りでサザエやアワビを2人で取りにいきました。

夜は、一緒に、お酒をよく飲みました。

自動車運転の仕方。 中古車の値切り方。

女の子の口説き方。

何をするにしても、すべてに大胆な考え方を教えてもらいました。

将来のことを相談するときも、 「人生で一番何にこだわる?」という聞き方をしてくる。

「十分な自由な時間かなあ。時間がほしいですね」とわたし。

「そうか、時間か。それなら、自由な時間がたっぷりにある生き方をしないとな」と。

おれは、学生のとき、どうしたら就職しなくていいか、そればかりを考えていたがなあ」とNさん。

そういえば、素潜りできる漁村に土地付きで家が300万円で売りにでとったで。海で食べ物をとって、裏山に野菜でも植えて生活したら?」とか。

「それいいですね。それじゃ、わたしの夢は、海辺の寒村哲学者になることかなあ」 なんて調子です。

「自由な時間か。それでは、女のヒモになるのはどうか?」とNさん。 「一度、どれだけ心を汚すことができるか、試してみてはどうか。」 「汚い心になってから、本物の綺麗な心をもう一度つかむというのはどうだ?」 とか。

4年間の塾でのバイトを思い出すとき、Nさんに叱られた経験は一度もありません。 4年間でただの一度もないのです。それってすごいことじゃないのかなとわたしは今になって思うのです。

一緒に愉快に暮らそう、

塾を一緒にやろう、

一度、不良中年にもなってみよう、

その後に仙人になろう、などと2人で話していました。

不思議です。 あるのは楽しい、楽しい思い出ばかりなのです。

◆満天の星

1986年の夏休み。 N塾は、中学3年生の男子生徒7人と合宿を行いました。

Nさんがマイクロバスを運転して、三瓶山に2泊しました。

そのとき、わたしは、天の川を初めて見ました。

星が空からこぼれ落ちるのではないか、と心配するぐらいの満天の星。

普通、学習塾の合宿といえば、受験勉強のための合宿なのでしょう。

わたしたちは、ロケット花火を200発も買い込み、それを10メートル離れて塾生を並ばせ、 彼ら目がけてロケット花火を連射するのです。

わたしは、「Nさん、危なくないですか? 耳や目に当たったらどうするんです?」と聞くと、 「当たらんわい。当たっても、どうってことない」。

そういって、わざとロケット花火を手の中で爆発させて、「あちち」。

でも、確かに火傷もなく、どうってことなかったのです。

生徒たちは、きゃっきゃ、きゃっきゃいって、飛び回り、彼らの目の輝くこと。

その後、天の川の下で、肝試し。 Nさんとわたしが暗闇に隠れて、生徒の後ろから飛びついたりするのです。 生徒たちの怖がること、怖がること。

次の日、草原で野球とサッカーをしました。

生徒の一人にT君という勉強がさっぱりできない子がいました。

学校では、いじめられることもあったと聞いていました。

T君の友達の岡田は番長格でサッカー部に所属していました。 サッカーの上手な岡田は、 自分のちからだけで、シュートをしてゴールを決めることができます。 でも、試合では、自分でゴールを決めることは敢えてしませんでした。 何度も何度もゴール前で、T君の名前を呼び、やさしくパスを出してあげるのです。 ところがT君は運動神経がそれほどよくないのか、なかなかゴールを決められません。 でも、岡田は、どうしても、T君にゴールを決めてもらいたかったのでしょう、 何度もT君にゴール前でパスを出すのです。 でも最後に、 岡田からTへのパス。Tがシュート。決まった! ゴールを決めたときのT君の笑顔がわたしの脳裏に焼きついたのです。

それから3年半後、1990年3月。Nさんと別れのときがきました。 わたしは就職したのです。バブルの絶頂で証券界へと。 わたしはNさんに松江を離れること、東京に就職すること、を話しました。 これだけお世話になって、塾に残らないという決断はつらいものでした。

Nさんは、わたしにこう話しました。 「お金を貯めて留学したいんだったら、わしが1年ぐらい行かせてやるぞ」 「いつでも帰ってこいよ」

そのとき、あの夏の合宿の話題になりました。 「Nさん、あの三瓶山の合宿、楽しかったね」 Nさんは、「おうおう、あの岡田のパスなあ。最高だったな」

・・・Nさんとわたしは同じものを見ていたんだ・・・

急にわたしの中で電流が流れて、何かが大きく弾けて、わたしの頬をボロボロと涙がつたいました。

 

結局、1990年4月にわたしは後ろ髪を引かれる思いで上京しました。 いまでも、これでよかったのだろうかと思うのです。

27年目の春が来て、久し振りに先週、Nさんと再会しました。 「Nさん、三瓶山の合宿。あの岡田のパス、覚えていますか?」 「おう、岡田は、たまに遊びにくるよ。」 「いい男になったよ」 「Tはいま、7人の子どもの父親だよ」 「へえ。7人か。すごいなそれは。」 人生って楽しいですね。

◆人はもっと自由になれる

Nさんは、こう続けました。 「Tはなあ、頭が生まれつき弱くて、学校がTを特殊学級に入れようとして、親が相談にきてな。 頭が少々悪いぐらいで、どうして特別学級なのか、おかしい。わしが学校と交渉してな。これを強く拒んで普通学級に入れさせたんだ」

「わしゃ、Tが卒業するときに、お前は、絶対に宝に恵まれるという話をしてな」 「子宝のことだけどな。おまえはいい父親になる、そういうてな」

「何をやってもミスばかりだが、Tは人から好かれる。

周りの人間が、あいつには成功してもらいたいと思う、人の好さがある」と。

Nさんは、今も不登校や中退してしまった生徒を迎えている。 Nさんはこういいました。

「不登校になるのはなあ、頭がいいから、いろんなことを真剣に考えるから、そうなるんだ」

「勘違いしている親が多くてな。自分がいい学校にいったのは、自分だけの努力だと思い違いをしている。」 「親がまずまずの就職ができたのは、これも自分一人の努力と思っておる。 親が自分の努力だけで一人前になったと勘違いしている」

「そういう親が、自分の人生が成功だと思い込み、子どもに同じ道を強要する」

わたしはなぜ、いつもNさんに会いたくなるのだろうか。

なぜ、この人と一緒に働きたくなるのだろうか。

この人と一緒に過ごした、あまりにも楽しかった時間のせいなのか。

いろいろな大切なことを教えてもらったからか。

それとも、とことん、お世話になったからなのか。

 

ジャズ・ピアニストになるという夢。自分で決めた道なのに、自分で諦めてしまった。絶望の中、どん底で出会ったこと。 結局、わたしには次の夢を見つけることは、できませんでした。 挫折し、わたしは立ち直ることができなかった

だから、何もわからないくせに東京に出てきて金融機関に就職した。

実際、どこが大きな銀行なのか、野村證券と和光証券はどちらが企業規模が大きいのかも知ったこっちゃない。日本興業銀行。なにそれ?って感じの金融の「き」の字も知らない。経済のことも、株のことも、興味はありませんでした。

失意のどん底にいた自分にとって、 自由に生きることを、就職しないことを肯定してくれるNさんの存在は救いだった

少しでもランクの高い企業に就職しようとする努力や少しでもよい点を取ろうとする努力をバカらしく思っていたあの頃。 自由に生きることが、人生を意味のあるものにすると信じていた。

そして、松江には、本当に人生を満喫し、タブーに挑戦し、なんでもやってみるというNさんがいて、 自由をこよなく愛している。 どんなにみじめな思いをしても、魂のままに生きる。 そんなNさんに会うと、わたしは元気になる。

 

P.S.

東京にいくと3秒で気分が悪くなるとNさんは笑う。 とても正常ではいられないと。

 

わたしもNさんのように、同僚にとって、一緒にいて楽しい存在でありたい。 一緒にわたしと働いてくれるチームを組んで、早いもので、10年の月日が流れました。 チームメンバーにとって、わたしは、どう映っているのでしょうか。

わたしは彼らと、 一緒に人生や将来のことを語ったり、 自由に生きることを率先し、奨励し、愉快で楽しい環境を提供できているでしょうか。

夕食をつくってくれて、住むところを用意してくれて、休みの日も一緒に遊んで、 「家賃も食費もいらない」といったり、ラブレターの書き方を伝授しているでしょうか。

「おまえはどんな人生を送りたい?」と聞いてあげているでしょうか。

絶えず店にボトルを置いてくれて、「いつでも飲みたくなったら、つけで飲んでくれ」と太っ腹なところを見せているでしょうか。

ある日突然、一緒に競馬に行き、すってんてんになり、

「ごめん、勝って焼肉をおごるつもりだったが、負けてラーメンになってしまった、すまん」と謝るでしょうか。

生徒が集まらず、給料が払えなくなったときに、深夜まで副業バイトをして、 給料を払ってくれるでしょうか。

何年一緒に働いても、一度も、怒らず、楽しい思い出ばかりを提供するのでしょうか。

まだまだです。 本当にまだまだなんです。

わたしはNさんには、全く、かなわない。一生かなわないでしょう。

何十年たっても、わたしのことを思い出して、会いたいと思ってくれる、そういう後輩ができたらいいのにな。 Nさんがわたしにしてくれたことを、今度はわたしがチームメンバーにする番なのにな。 そんな気持で、東京に戻り、27年目の春に決意を新たにした旅でした。

まとめ

  • 挫折は乗り越えずともよい
  • 子供や同僚や仲間の人生ならば、ただ肯定してあげてほしい
  • 部下や子供を一回も叱ることがないように努力してみよう
公教育を共に支えましょう!

2019年12月18日子育て・教育

Posted by 山本 潤