子育てコラム#17 メロスは走った。内申書のために!1978年の走れメロス

2019年12月18日

大切なことを教えてくれた恩師、大藪先生に捧げる。

勉強するやつは頭が悪いという時代の話 1978年の走れメロス

(子育てコラム第17回

 
1978年4月にぼくは名古屋市立守山中学校(守中)の3年生になった。
まだ子供の多かった時代。当時は1つの学年で10学級ある大きな中学校だった。
 
名古屋市立白沢小学校を卒業したときには、ほぼ全員がそのまま守中に通った。
友達で私立の中学校に行く同級生はひとりもいなかった。
学習塾に通う生徒も、小学校、中学校通してほとんどいない、という状況であった。
 
市営住宅の住民を低所得者と差別するような風潮も全くなかった。
1970年代の守山区は、みんなが貧しかったからだ。
 
髪の毛の色を染めたり、ダボダボのズボンをはいたり、いわゆる「ヤンキー」や「不良」も少なくはなかった。
 
そして、いじめは、いまのように陰湿ではなく、もっと公然としたものであった。
廊下を引きずり回され泣き叫ぶ声が聞こえていた。給食の牛乳を頭からかけられるものもいた。
文字通り、ボコボコに殴られるものもいた。廊下では男子生徒同士の喧嘩が日常であったし、骨のある先生が睨みを利かして、学校に秩序をもたらしていた。
 
何時間も学校で勉強して、それでも足りず家でも勉強するやつはかなり頭が悪いバカだとほとんどの中学生は思っていた、勉強なんか全くしなくてもよかった時代の話だ。
 
喧嘩はとにかく多かった。相手がどんなに悪くても、自分がどれほど正しかろうが、喧嘩に負けた方が悪い。喧嘩の強いものは尊敬された。子供の間に喧嘩の強さの序列はあった。ぼくは喧嘩が弱かったから、この考えはとても理不尽に感じた。
 
だが、人間というものは、理想だけでは片付かない。生命力、防衛力が生きて行く上でどうしても必要であった。殴られたら、殴り返す必要があった。そのため、不意を突いたり、押し倒して、乗りかかり、そして、髪の毛を引っ張り、痛い痛いという相手の顔を殴る。上に乗られたものが逆転するのは難しいが、急所を蹴り上げたり、髪の毛をつかんで強引にひっぱたりすることで形勢は刻々と変わるものであった。
 
喧嘩による決着が子ども同士のルールだった。
 
いまは、どうだろうか。
喧嘩になりそうなとき、親が介入して、事前に喧嘩をやめさせる。
喧嘩が生じたときは、けがをさせた方が悪いとなる。そうなると、喧嘩に負けた方が勝つということになる。
物事は複雑になり、コンプライアンスだ、教育委員会だ、学校や先生は何をしているなどと批判する。
 
1970年代という時代、どんなに公然といじめが行われていても、立ち向かうのは本人とその友達であって、親の出る幕はなかった。

不登校のK君。イナズマが体を突き抜けた瞬間

 
中学校3年2学期のある朝。
それは国語の授業であった。
 
クラスの副担任である大ベテランの大藪先生という先生がいたのだ。
怒鳴ったことがない温厚な先生だった。
 
その大藪先生が、大いに嘆いたのだった。
 
「このクラスは大丈夫かいな。」
 
「K君はどうした?」
 
K君はずっと欠席していた。
 
「誰も知らんのか?」
 
誰も答えられなかった。
 
「クラスメートのこともわからないのか。情けない奴らじゃのう。」
 
ぼくの人生で初めてといってよい、不思議な経験をした。
 
先生が「情けない奴」という言葉を発した瞬間、身体中に電気がビビビッとイナズマのように走ったのだ。
 
その後の人生で、「体にイナズマが走る」という経験は二度としていない。
 
15才という若さからだろうか、若さゆえの感受性なのだろうか、あのときの体を突き抜けた衝撃をぼくは忘れはしない。
 
ぼくたちは、早速、K君の不登校をなんとかしなければならないと思い、仲間と行動を起こした。
 

朝のお迎え 順番にK君の家に呼びに行く毎朝が始まった

 
僕らは仲間数人と交替でK君を朝迎えにいった。
 
K君がこなくなった理由はぼくたちにはわからなかった。
 
本人もぼくには話さなかった。
 
やや体格のよかったK君は、そのことを気にしていたのか。
 
結局、本当の理由は本人しかわからない。
不登校の理由を聞くほど、中学生は野暮じゃない。
 
ぼくらは、ずっと迎えにいった。
 
だが、K君は学校には来ることはなかった。
 

中学3年生。県立高校の受験を間近に控え、内申書を決定づける期末テストの朝がきた

ぼくらはみんな受験生だった。
県立高校に行くつもりであったぼくは、志望校をぼんやりと思い描いていたが、県立高校の受験の半分は内申書で決まるシステムであった。そして、内申書は、相対評価であり、期末テストの点数で主に通知表は査定されていた。
 
そして、冬がやってきた。いよいよ2学期の期末テストの朝がやってきた。
初日の最初のテストは大藪先生の国語であった。
 
繰り替えしになるが、内申書というものが県立高校への進学には重要であり、
その朝、ぼくは、期末テストの点数で通知表がほぼ決まることを十分に意識していた。
 
それで、ぼくは、その朝、K君を見殺しにした。
 
K君を迎えにいくのはぼくの番であった。
 
その朝、ぼくはK君を迎えに行かなかったのだが、
自分の内申点が心配で、普段勉強していないこともあって、自分のことだけを考えて、自宅からそのまま登校してしまったのだ。
 
交替で6人の仲間でローテーションを組んでいた。
川本、杉山、松村、元山、長谷川とぼくであった。
 
最初に学校であったのは、杉山だった。
杉山は、ぼくに命令口調で聞いた。
(二年前にあった時、杉山は否定したが、ぼくははっきりと覚えている)
 
「おい、ヤマジュン、Kはどうした。なんでこないんだ?」
 
ぼくは、答えた。
 
「今日は、迎えに行かなかった。」
 
杉山は非難した。
 
「わ、お前、テストだから行かなかったのか? わ、おまえ、最低なやつ!」
 
杉山のいうことは、腹に響いた。まさに正論だ。
ぼくはK君を裏切ったばかりではく、仲間との約束も破ってしまったからだ。
 
その情けなさ。
体がとても熱くなったことを覚えている。
杉山に、ぼくは自分のカバンを渡した。
 
「ばかやろー、お前、待ってろ! 俺はいまから、迎えにいく!」
 
テストが始まる。そのときに、ぼくは中学校の校門を出て、テストを受けずにK君の家までただ、走った。
 
そのとき、太宰治の「走れメロス」がなぜか頭の中を反復したことを覚えている。
ぼくは自分でつぶやいていた。
 
「メロスは走った。メロスは激怒した。メロスは走った!」
 
メロスはつぶやいた。ぼくの内申書はこれで犠牲になるだろう。
 
高校進学も不利になるだろう。
 
くそったれ。くそったれ。ばかやろう。
そう思いながら、時折、母のことが頭に浮かんだ。
 
「母さん、ごめん。俺の受験はダメだった」
 
K君のもとへ。ただ、走る。
 
1978年の走れメロス。
 

驚いた K君のお母様 と にっこり笑ったK君

 
どれだけ走ったろうか。
守中から緑ヶ丘の坂を登り、かかった時間は25分程度であっただろうか。
ぼくは、K君の家の呼び鈴を押す。
 
K君のお母さんが招き入れてくれた。驚いた顔をしているのは、予期せぬ訪問者であったからか、それとも汗だくのぼくが鬼気迫っていたからか。
 
「山本君、あなた、今日、期末テストでしょう? こんなとこにいていいの? うちの子のことはいいから、早く学校に戻りなさい!」
 
K君のお母さんは、まず、ぼくを心配をしてくれた。そして、Kは、ぼくをみて、なんと、にっこり笑ったように見えた。
 
そのとき、ぼくはようやくわかったのだ。なんという利己主義!
なんという自分本位! なんというダメな人間になっちまったんだ! ぼくは!
 
ぼくは元気だ。そして、テストは受けられないが、二時間目には間に合うかもしれない。
だが、K君はテストも全部放り投げて高校を受けるしかない。義務教育だからといってちゃんと卒業できるのか、彼もお母さんも不安でいっぱいなのに。なんてこった。ちくしょう。ぼくよりもK君はもっと大変なのに。それなのに、自分のことばかり心配する俺。くそ、俺なんか、どうでもいいぜ、という心境にいつのまにか変わっていたのだ。
 
ぼくは奥の部屋にいるK君に大声で呼びかける。
 
「とにかく受けるだけ受けてみようぜ! 一緒に受けようぜ! いまから一緒に学校に行くぜ!」
 
大声で頑張ったが、K君を説得することは結局できなかった。ダメだ。
 
5分、10分、と時間が過ぎる。
 
K君のお母さんが、ぼくに懇願する。
 
「あなた、早く学校へ戻って。あなたの親に申し訳ない。おばさんのためにあなたはテストをちゃんと受けて」と。
 
これを徒労といわずしてなんという。努力は無駄に終わったのだ。
 
K君はこない。
 
そして、ぼくもテストを受けられない。
 
ぼくは踵を返して学校へと向かった。

走れメロス

メロスは走った。
 
そのフレーズを何度も頭で繰り返しつつ、ぼくは走った。
メロスは走る。
学校へと。結局はテストのために。自分のために。
内申書のために。
 
もう間に合わない。
 
でも、5分でも、テスト時間が残っているのなら、受けてみよう。
 
汗がドクドクとほとばしる。
 
守山中学の校門が見える。あと一息だ。門を再びくぐる。
 
教室のドアをガラガラと開ける。
 
みんな静かにテストを受けている。
 
こちらを見る大藪先生。そして、仲間の杉山、川本、松村、長谷川、元山たちがぼくをみる。
ぼくは首を横に振った。Kくんがこないことを示すために。
 
時間は残っていなかった。
大藪先生が急いで答案用紙とテスト用紙を机に置いてくれた。
 
名前を書く。
いくばくかして、チャイムがなった。
 
大藪先生が、テストを回収した後で、ぼくに言った。
 
「ご苦労さん」
 
そのとき、杉山、松村、川本たちは、ぼくが教室に戻ってくるまで、テストに手をつけなかった。
 
もし、ぼくが戻ってこなかったら、彼らは白紙で答案を提出するつもりだったのだ。
我が母校、名古屋市立守山中学校というところは、そういう生徒たちの集まるところであった。
 

不登校を克服し学校に戻って来たK君

三学期になった。ぼくたちは、相変わらず、K君を朝誘っては、断れていた。
 
ある日、ぼくは発熱し、学校を休む羽目になった。
ところが、昼前に、熱が下がった。
そこで、K君の家に、遊びに行った。
K君の家でテレビを見た。
K君のお母さんは、出前を取ってくれた。
 
ありがたくお母さん、K君とぼくとでランチをいただく。
K君は自宅では落ち着いていて、よく笑った。
 
熱も下がったしな。「学校へ行こうよ」と誘うぼく。K君は嫌がっている。
 
ぼくはそのころ、強引すぎた。
 
お前が学校へ行かないなら、俺が学校をここへ持ってきてやるよ。
 
「いまから、みんなを、学校をここにつれてくる」
 
あっけにとられるK君とお母さんの二人。ぼくは、私服のまま学校へと走った。
担任の野呂先生の理科の時間だった。ぼくが私服なので、みんなは、お前、学校休んでなにやってんだという空気が流れた。
 
「先生、みんなをKの家に連れていく。いいですか、先生?」
「みんな、これからKの家に行くぜ!」
そして、大挙して、クラス全員でK君の家に行った。
 
1週間後、奇跡がおきた。
K君が学校に来たのだ。
そして、卒業までずっと学校に来た。
僕らは、夕暮れの教室で、なんでもない話をたくさんしたものだ。
夕暮れの教室でKくんと二人でくっちゃべっていると、担任の野呂先生が声をかけてくれた。
「お前ら、仲がいいんだなあ」と。
ぼくは自分の頬がちょっとだけ赤くなるのを感じた。
 
野呂先生の3年F組は、結束していた。
「みんなはひとりのためにある」と信じていた。
 
最近、長谷川が特許関係の仕事をやっている縁で、彼と川本や杉山や松村と飲んだ。
杉山が「俺はそんなこと絶対に言っていない!」と言い張る。
3年F組の悪友たちと
2017年。
左から川本、筆者、杉山、長谷川、松村。名古屋の栄のビアガーデンにて
 
最後になったが、我が家は子ども四人を中学受験させなかった。全員、公立中学校へ行かせることにしたのは、
ぼくのこうした公立中学の原風景が強く心に残ったからだ。稲妻が身体中を突き抜けた、あの感覚をぼくは忘れることはないだろう。
 
良い学校か悪い学校かは、外部が決めることではなく、当事者である生徒が決めるものだ。悪いところがあれば、生徒同士がよい学校にしていけばよいじゃないか。それは、地域社会全般、いや、日本全般、いいや、世界全般に繋がる真理であるとぼくは考える。暴風雨の中、単に、弾き飛ばさられるだけのちっぽけな存在であってよい。パンセは人間のそのか弱さを葦に例えた。か弱いぼくらはそれでも「考える葦」である。他人の評価によって生きるのではなく、自分を自分で評価して生きていこう。
 
(そして、何十年も経って、長男がぼくと同様のことを江戸川区立清新第一中学校でやってくれたのだ)

2019年12月18日子育て・教育

Posted by 山本 潤